KAFKAESQUE(日垣隆検証委員会)

主に作家の日垣隆、猪瀬直樹、岩瀬達也、岡田斗司夫、藤井誠二などを検証しているブログです。

赤頭巾ちゃん、オオカミ中年に気をつけてー検証・日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(その壱)

・初めてこのエントリーを読まれる方は「日垣問題の記録」「日垣隆(Wikipedia)」「ガッキィスレまとめサイト@ウィキ」のご一読をおススメします。
※2013/3/4追記:エントリーを更新しました。脚注(出典)を追加。


日垣隆の代表作『そして殺人者は野に放たれる』

日垣センセイの代表作といえば、『そして殺人者は野に放たれる』(新潮社)が一例として挙げられます。これは日垣センセイが、新潮社発行の月刊誌『新潮45』に「封印された殺人の記録」と題して、同誌2002年1月号〜2003年9月号まで連載した記事を再構成し、加筆して収録したものです。単行本(2003年12月20日発行)は2003年12月頃に刊行され、文庫版も2006年10月頃に新潮文庫(平成十八年十一月一日発行/平成十九年二月二十日四刷)から出ています。因みに単行本は、2004年度の第3回新潮ドキュメント賞の受賞作であり、ジャーナリズムがタブー視してきた精神障害者による犯罪、刑法39条及び精神鑑定、司法当局の偽善を暴いた良書として、論壇・マスコミ関係者だけでなく、多くの読者から今もなお絶賛されています。

例えば、ノンフィクション作家の高山文彦氏も新潮社発行の月刊誌『波』の2004年1月号に【肩を揺らし、胸を射抜く「覚悟」】と題する書評を寄せ、次のように褒めちぎっています。

十年にわたる取材の成果が収められた本書*1は、労作であると同時に問題作である。思考停止した日本の司法や精神鑑定のあり方に大きな一石を投じ、改革を断行させる起爆剤になるだろう。

高山文彦【肩を揺らし、胸を射抜く「覚悟」】『波』(新潮社、2004年1月号)P64〜65


ネット上でも、例によって例のごとく、アルファブロガー兼多読家の小飼弾氏が自身のブログのエントリーで激賞しています。ググってみても、小飼氏以外にも好意的な感想を寄せているサイトには事欠きません。

上記の高山文彦氏は本書*2について、「思考停止した日本の司法や精神鑑定のあり方に大きな一石を投じ、改革を断行させる起爆剤になるだろう。」と断言していました。しかし、実際には現在に至るまで、本書は多くの専門家からほぼ完全無視されているのが実状です。辛うじて精神科医小田晋氏が、共著『刑法39条 心の病の現在』(新書館、2006年1月25日初版第一刷発行)において、批判的に取り上げているぐらいです。

では、何故本書はこれまで読者からの絶賛とは対照的に、多くの専門家から黙殺され、或いは全く相手にされてこなかったのでしょうか。

それはとにもかくにも、日垣センセイが本書で展開している主義主張が、実は悉く的外れであり、かつデタラメで頓珍漢なものだからです。

以下の論述は、本書の文庫版を元に検証したものです。


●刑法39条とは、近代刑法の責任主義とは

刑法とは、どのような行為が犯罪となり、それに対してどのような刑罰が科せられるかを定めた法律です*3犯罪とは、一般的に「法に反し、かつ刑罰が加えられる行為」ですが、刑法上の定義としては「構成要件該当性に一致する、違法かつ有責な行為」とされています。つまり、(1)構成要件該当性、(2)違法性、(3)有責性が犯罪を構成する三つの条件であり、いずれか一つでも欠けている場合は、犯罪不成立として、罪には問われません*4

また日本の現行の刑法は、1907年(明治40年)に公布され、翌1908年(明治41年)から施行されているものが、原型となっており、予め犯罪の類型及び刑罰の上限が定められています。これがいわゆる「罪刑法定主義」であり、後述する「責任主義」と並んで、ドイツなど欧州を起源とする近代刑法の大原則の一つです*5


(1)「構成要件該当性」とは、耳慣れない用語ですが、犯罪の一般的成立要件のことであり、問題となる行為が刑法上の刑罰規定のどれに該当するか否かについての概念です。より分かりやすく言えば、ある行為が既存の刑法上のどの犯罪のパターンに該当しているのかということです*6

(2)「違法性」とは、形式的には法規範に違反している行為(性質)、つまり、常識的かつ客観的に見て「悪いこと」か否かです。例えば、刑法上の刑罰規定に該当する可能性がある、通常ならば構成要件該当性に一致する行為でも正当防衛(刑法36条1項)及び緊急避難(刑法37条1項)、または医療などの正当な業務行為(刑法35条)であれば「違法性阻却事由」として、その違法性を否定しています。問題となる行為が違法であると認識しようがなく、認識していてもやむを得ない事情がある場合もまた同様です*7

(3)「有責性(責任)」とは、犯人に「悪いこと」をしているという主観的な認識があるか否かです。すなわち加害者に犯行をする自由意志があり、主体的かつ明確な犯意がなければ、責任を問えない、或いは責任を減軽するということです。これが「責任無くして刑罰無し」という「責任主義」の考え方であり、前述の罪刑法定主義と並ぶ近代刑法の大原則に含まれています*8


以上の通り、近代刑法とは責任刑法であり、「(客観的な)違法性」と「(主観的な)有責性」の問題を区別して論じているのが特徴とも言えます*9

刑法39条の問題を考える上で、議論の主戦場となっているのは(3)の「有責性」です。責任主義の考え方によれば、犯行時に病的な妄想、幻聴などに駆られていたり、または意識が朦朧としていた場合も、刑事責任を問えず、またはそれを減軽します。これが刑法39条の理論的根拠です。学説だけでなく、判例も多数あります*10

心神喪失及び心神耗弱)

第39条
1 心神喪失者の行為は、罰しない。
2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

刑法39条(心神喪失及び心神耗弱)


学説及び判例の定義によると、「心神喪失」とは、事柄の理非善悪を弁識し、かつそれに従って行動する能力が完全に欠落している状態を意味します。これを「責任無能力」と言います。一方、「心神耗弱」とは心神喪失ほどではないが事柄の理非善悪を弁識し、かつそれに従って行動する能力が減衰している状態を意味しています。これを「限定責任能力」と言います。刑法39条とは、責任能力が無ければ、精神障害者だけでなく、誰であろうと刑罰を加えないと規定しているとも言えます*11

これに対して、日垣センセイは本書において、以下のように刑法39条を批判しています。

何人も、故意に基づく凶悪犯罪に対して、責任と刑罰を免れるべきではない。
P85

結果の重大性をもって有罪かつ責任能力ありとするのが法の正義だと言うのならば、精神分裂病*12躁鬱病や癲癇に関しても同様でなければならない、という点だ。
P133

私の意見では、犯人に加害の意思があるかぎり、その犯罪に対して刑罰を科さなければならない。心神耗弱や心神喪失が認定されうるのは、例えば運転中にクモ膜下出血による意識不明下で事故を起こしてしまった場合や、常染色体異常(ダウン症など)の子が本人の意思とは無関係に背後の他人を蹴落としてしまったような場合に限定されるべきなのである。実際には、このような事態は皆無に近いはずだ。が、この国では刑法三九条を超拡大解釈して、癇癪やらアルコール中毒やら覚醒剤中毒にまで“バンバン適用”する悪しき慣習を惰性で続けてきてしまった。
P137〜138

いかなる理由によってであれ、またいかなる精神病者といえども、自らの意思でおかした犯罪の結果に対しては刑事責任を負わなければならない、と考える。
P144

刑法三九条は即刻削除すべきであり、そうしないかぎり三九条の暴走に終止符を打つことはできない。三九条があるかぎり、やや異常な犯罪に対して法廷で、すべてこの条文がもちだされることは不可避である。
P160

さらに恐ろしいことに、本書で何度もつぶさに見てきたとおり、アルコールや覚醒剤に起因する凶悪犯罪者に対して「心神耗弱」が乱発されてきた、という特殊な日本的問題がある。
P298

日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(新潮文庫、平成十八年十一月一日発行/平成十九年二月二十日四刷)P85、P133、P137〜138、P144、P160、P298


日垣センセイの主義主張によると、犯行時の自由意志を問わず、内心の状態がどうであれ、殺人などの重大な他害行為を行った心神喪失者は有罪にして、刑事責任を問うべし、ということになります。何が何でも、とにかく結果の重大性を直視せよ、と。

しかし、これは明らかに「(客観的な)違法性」と「(主観的な)有責性」の問題を完全に混同しています。本当にこれで、理にかなった結論が出せるでしょうか。試しに下記のケースで考えてみます。


[1] Aさんは、Bから無理矢理(或いは騙されて)覚醒剤を注射され、心神喪失状態となり、無関係のCさんを殺害してしまった。

[2] Dさんは、Fから飲酒を強要され、心神喪失状態となり、無関係のGさんを殺害してしまった。

[3] Hは、認知症の夫のIさんを介護していたが、その後、H自身も認知症になり、Iさんを殺害してしまった。犯行後の精神鑑定の結果、Hは認知症の影響で犯行時は心神喪失状態であることが判明した*13 *14


刑法39条が無いと、既に「共犯」という犯罪類型がある以上、過去の判例を踏まえて判断しても、上記の[1]、[2]のケースでは、いずれもAさんとDさんは刑事責任を問われてしまいます。まして「アルコールや覚醒剤に起因する凶悪犯罪者」を許すな、結果の重大性を見逃すなと言うのであれば、尚更です。

また上記の[3]のケースは、共犯ではなく単独犯ですが、これなども刑法39条が無ければHは刑事責任を問われることになります。

とどのつまり、刑法39条を巡る日垣センセイの主張は、「正論」のようで、実は完全に論理破綻をきたしているのです。言わば、問題解決の処方箋にはならない、全く使えない「極論」なのです。

上述した通り、「責任能力」とは、理性と感情の間で折り合いをつけていくのが非常に難しい分野です。だからこそ、一つ一つの事件について、その都度、精緻な検証と冷静な議論が要求されるのですが……日垣センセイは本書において、きちんとした論証を一切放棄して、安直な感情論を振りかざしがちです。心神喪失者及び心神耗弱者に殺された犯罪被害者の人権を考えろ、被害者の遺族の感情も無視するなと、ただただヒステリックに絶叫し、読者の「理性」ではなく、「感情」に訴えかけてばかりいます。これでは、それこそ「理性的」な議論が全くできません。


●日本の異常性を示す国際比較も、信憑性に疑問符が

さらに言うと、日垣センセイが本書において繰り返し取り上げている日本と諸外国との国際比較も、殆どの事例について根拠が明示されておらず、信憑性に疑問符が付きます。

例えば、日垣センセイは本書において次のように述べています。

心神喪失認定による不起訴が、日本以外の国のおおむね一〇〇倍にも達するのは、どう考えても国際的スキャンダルと言わざるをえない。この点は章を改めて詳細に検討したい。

日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(新潮文庫、平成十八年十一月一日発行/平成十九年二月二十日四刷)P120


日垣センセイは「心神喪失認定による不起訴が、日本以外の国のおおむね一〇〇倍にも達する」と断言していますが、ならばその根拠となるデータを是非とも明示して欲しいです。「この点は章を改めて詳細に検討したい。」と明言しながら、それ以降のページの最後まで、またはそれ以前の全ページのどこにも根拠が全く示されていませんから。

そもそも専門家でさえ、例えば米国における精神障害者の不起訴処分について、以下のように述べています。

米国においても、精神障害を理由とする不起訴処分が行われているとのことであるが、その数は不明である。

清井幸恵「米国における訴訟能力と責任能力」『判例タイムズ』(判例タイムズ社、No.1202[2006年4月15日号])P106


専門家が米国における精神障害者の不起訴処分について「数は不明」と言明しているのに、どうして専門家ではない日垣センセイに分かるのでしょうか。まさかiPadみたいにデータを特殊ルートで手に入れたとか、日垣センセイは強弁するつもりなのか……見当がつきません*15

また日垣センセイは、日本と他国の刑法との比較において、スイス刑法12条を下記のように絶賛しています。

自ら招いた心神喪失状態によって無罪をかすめとろうという不埒な犯罪者に対しても、日本の刑法は未だ無防備なままである(かろうじて学説により「原因において自由な行為」理論という珍説が披瀝されているにすぎない)。

心神喪失規定をもつ、日本以外の国々ではその点、刑法上で明確に歯止めをかけている。

ごく一例を挙げておく。

《犯人自身が、意識の重大な変調または障害の状態において罪となるべき行為をなそうという意図で、その状態を招来したとき》は有責とみなす(スイス刑法一二条)。

日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(新潮文庫、平成十八年十一月一日発行/平成十九年二月二十日四刷)P296〜297


上記の文節後段において紹介されているスイス刑法12条ですが、条文をしっかり読む限りでは、これは日垣センセイが文節上段で「珍説」、本書のP212〜215において「珍理論」と口を極めて批判する「原因において自由な行為」理論を明文化した規定です。

原因において自由な行為」とは、刑法上の学説の一つで、犯行時に心神喪失心神耗弱の状態であったとしても、故意または過失によって心神喪失心神耗弱の状態になったのであれば、刑法39条を適用せずに刑事責任を問うものです。言うなれば、犯行時の行為責任よりも、犯行に至った原因責任を重視することで、刑の減軽などの目的で意図的に心神喪失及び心神耗弱状態を引き起こした犯人を処罰するものです*16

日本では、「原因において自由な行為」の学説は、既存の刑法に明文化された規定こそありませんが、判例としては既に確立しています*17

日垣センセイは「原因において自由な行為」とは、どういう代物なのかを例によってきちんと理解しないまま「珍説」「珍理論」と批判する一方、「原因において自由な行為」を明文化したスイス刑法12条には肯定的な評価を与えているのですから、開いた口が塞がりません。日垣センセイは、どうやら日本語に訳された外国の刑法の条文さえ、まともに読めないようで……。



★参考資料

Amazonレビュー:感情的対立を煽るだけの悪しきジャーナリズム

山口厚『刑法 第2版』(有斐閣、平成23年9月25日第2版第1刷発行)

山口厚『基本判例に学ぶ刑法総論』(成文堂、2010年6月20日初版第1刷発行)

岩波明『精神障害者をどう裁くか』(光文社新書、2009年4月20日初版第1刷発行)

小田晋、作田明、西村由貴『刑法39条 心の病の現在』(新書館、2006年1月25日初版第一刷発行)

刑法

刑法 (日本) - Wikipedia

刑法学 - Wikipedia

犯罪 - Wikipedia

構成要件 - Wikipedia

違法性 - Wikipedia

責任 - Wikipedia

違法性阻却事由 - Wikipedia

罪刑法定主義 - Wikipedia

責任主義 - Wikipedia

責任能力 - Wikipedia

原因において自由な行為 - Wikipedia

正当防衛 - Wikipedia

緊急避難 - Wikipedia

正当行為 - Wikipedia

自由意志 - Wikipedia

認知症 - Wikipedia

裁判所

そして殺人者は野に放たれる (新潮文庫)

そして殺人者は野に放たれる (新潮文庫)

刑法 第2版

刑法 第2版

基本判例に学ぶ刑法総論

基本判例に学ぶ刑法総論

精神障害者をどう裁くか (光文社新書)

精神障害者をどう裁くか (光文社新書)

赤頭巾ちゃん気をつけて (新潮文庫)

赤頭巾ちゃん気をつけて (新潮文庫)

赤頭巾ちゃん気をつけて [DVD]

赤頭巾ちゃん気をつけて [DVD]

*1:日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』単行本

*2:日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(新潮社)

*3:山口(平成23年)P3〜4

*4:山口(平成23年)P21〜22、岩波(2009年)P146〜147

*5:山口(平成23年)P8〜18、岩波(2009年)P146〜147

*6:山口(平成23年)P23〜55、岩波(2009年)P146

*7:山口(平成23年)P56〜98、岩波(2009年)P146

*8:山口(平成23年)P99〜138、岩波(2009年)P146〜147、小田・作田・西村(2006年)P54〜56

*9:山口(平成23年)P3〜138、岩波(2009年)P146〜147、小田・作田・西村(2006年)P54〜56

*10:山口(2010年)P177〜202

*11:山口(2010年)P177〜202、同(平成23年)P134〜138、岩波(2009年)P21〜23、P143〜174、小田・作田・西村(2006年)P10〜12、P52〜56、P62〜63

*12:統合失調症の旧称。2002年に日本精神神経学会の決議で、現在の名称に変わった。

*13:MSN産経ニュース『ロッキード事件裁判長殺害、妻を不起訴処分「認知症で責任能力なし」』2012.5.15 20:19 (1/2ページ)

*14:MSN産経ニュース『ロッキード事件裁判長殺害、妻を不起訴処分「認知症で責任能力なし」』2012.5.15 20:19 (2/2ページ)

*15:togetter『iPadを「特殊ルート」で入手したという日垣隆氏の見苦しい言い訳。』

*16:山口(2010年)P194〜202、同(平成23年)P135〜137

*17:山口(2010年)P194〜202、最高裁判例「昭和42(あ)1814刑集第22巻2号67頁」