KAFKAESQUE(日垣隆検証委員会)

主に作家の日垣隆、猪瀬直樹、岩瀬達也、岡田斗司夫、藤井誠二などを検証しているブログです。

WOLF'S DEMAー検証・日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』の評判(補論B)

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Amazonレビュアー【懸垂百回】さんが『そして殺人者は野に放たれる』のAmazonレビューコメント欄にて、日垣センセイの大学時代の先輩の証言を取り上げた当ブログのエントリーに言及しています。日垣センセイによる弟さんの死因の変遷ぶりを分析しており、これもまた一読の価値があります。僕(当ブログ管理人)も懸垂百回さんとほぼ同意見です。遅ればせながら、【懸垂百回】さんにはこの場を借りてお礼申し上げます。


●SYNODOS/シノドス代表の芹沢一也も、『そして殺人者は野に放たれる』の信奉者だった……!

 これまで当ブログでは、日垣センセイの代表作にして稀代のペテン本『そして殺人者は野に放たれる』(新潮社)を検証する一方、同書を無反省に持ち上げていた文化人たちの言動も折に触れて俎上に上げてきました。

WOLF'S DEMAー検証・日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』の評判 - KAFKAESQUE(日垣隆検証委員会)

WOLF'S DEMAー検証・日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』の評判(補論) - KAFKAESQUE(日垣隆検証委員会)

WOLF'S DEMAー検証・日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』の評判(補論A) - KAFKAESQUE(日垣隆検証委員会)


 現在も該当者がいないか、断続的に調査していますが、新たに電子マガジン「SYNODOS/シノドス」の代表者である社会学者の芹沢一也が、日垣センセイ及び『そして殺人者は野に放たれる』を高く評価し、影響を受けていることが分かりました。

 日垣隆の『そして殺人者は野に放たれる』という本のなかに、息子を通り魔事件で失った母親が、簡易精神鑑定の結果、心神喪失で容疑者が不起訴とされたのに対して、「なぜ殺人という結果が裁かれないのか」と訊ねる場面がある。それに対する日垣の答えは、以下のようなものであった。

 
「日本の刑法は罪刑法定主義じゃないからです。罪刑法定主義というのは、近代法治国家の大原則なのに、明治時代につくられたままの刑法はそこまで至っていません。世界各国の刑法を調べてみると、一歳以下の赤ん坊を殺した場合はこう、一三歳以下の子を監禁したうえ殺害した場合はこう、金銭めあてに殺した場合はこう、という具合に可能なかぎり具体的メニューを国民に示しています。しかしながら日本では、刑法一九九条に『人を殺した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する』と書いてあるだけです。故殺も謀殺も区別されていない。[日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』一二頁、新潮社、〇三年]

 犯罪がその「行為」によって裁かれないのは、日本の刑法が罪刑法定主義ではないからだというこの主張は、さすがに本質的なポイントをついている。

芹沢一也『暴走するセキュリティ』(洋泉社新書、2009年3月21日初版発行)P30〜31

 以前にも下記のエントリーで検証しましたが、日垣センセイも芹沢も近代刑法の二大原則たる罪刑法定主義責任主義について正しく理解していません。言うまでも無く、日本の刑法には罪刑法定主義の原則があります。現行刑法には、罪刑法定主義を明文化した条項はありませんが、日本国憲法31条及び39条には該当する条項があります。そもそも心神喪失者が責任能力無しで無罪(不起訴等)になるのは、罪刑法定主義ではなく、責任主義の問題であることは、刑法学において常識中の常識。言わば基礎の基です。日垣センセイのデタラメの何処が「さすがに本質的なポイントをついている。」のか。何の検証もしないまま、日垣センセイの妄言を鵜呑みにするとは、芹沢の勉強不足も甚だしいです。

赤頭巾ちゃん、オオカミ中年に気をつけてー検証・日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(その壱) - KAFKAESQUE(日垣隆検証委員会)

赤頭巾ちゃん、オオカミ中年に気をつけてー検証・日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(補論F) - KAFKAESQUE(日垣隆検証委員会)

 さらに日垣センセイ及び『そして殺人者は野に放たれる』を手放しで称賛する芹沢の呆れた主張が続きます。
 

 刑法は犯罪行為と刑罰の対応を示した、日垣の言葉を借りれば「メニュー」としてあるべきではなく、個々の犯罪者にふさわしい刑罰を科すための道具としてあるべきだということだ。それゆえ、戦前を代表する刑法学者である牧野英一は、まさに罪刑法定主義が不在である点にこそ、新しい刑法の進歩的な側面があると断言した。

 犯罪被害者遺族と法の正義

 以上のような歴史的経緯をおさえたうえであれば、日本の刑法は罪刑法定主義でないために結果によって裁かれない、このような日垣の批判は本質的な意義を有する。そしてその批判がもつ核心的な意義は、犯罪被害者遺族の立場を代弁したところにあった。

 刑事司法が犯罪者という人間やその性格に、つまりは動機や犯情、あるいは情状や境遇などへの関心に支配されるとき、そこでみえなくなる存在が、ほかならぬ犯罪被害者と遺族である。現に明治の半ば以来、ごく最近にいたるまで、刑事司法の関心は犯罪者にのみ注がれ、犯罪被害者とその遺族は、文字通り蚊帳の外におかれてきた。

 こうしたなかにあって、日垣のような批判は、百年のあいだの動向を支配してきたパラダイムに対立するものだった。それがなぜ、精神障害者の犯罪をめぐって生じたのかは、容易に理解できよう。

芹沢一也『暴走するセキュリティ』(洋泉社新書、2009年3月21日初版発行)P34〜35
 

 戦前の大日本帝国憲法23条にも罪刑法定主義に該当する条項はあり、これが現行刑法でも明文化されなかったのは、自明のことだから二重条項になるのを回避するためだったに過ぎません。牧野英一らの新派刑法学も戦後は完全に衰退し、現在は見る影もありません。芹沢は罪刑法定主義に関するデタラメはおろか、どうやら日垣センセイの弟さんの死因に関する嘘八百*1まで真に受けて、日垣センセイのことを「犯罪被害者遺族」「弟を殺された立場から、犯罪被害者遺族の心情を代弁しているジャーナリスト」と勘違いしている可能性があります。これなども学者とは到底考えられないほど、迂闊で軽率な姿勢と言えます。

 さらに言えば、芹沢の精神障害に対する認識が、いわゆる「反精神医学」に根差しているのも、日垣センセイの影響を間接的にであれ、受けている疑惑があります。芹沢の論調が、一貫して「反精神医学」であることは、例えば、以下のような箇所からも分かります。

 

 昨今、さまざまな論者が、さまざまな立場から刑法三九条を問題にしている。筆者も同じく、刑法三九条とそれが生み出す構造は、犯罪被害者、精神障害者精神科医、すべてにとって不幸なものではないかと考える。

 そうであるなら、精神障害者であろうとなかろうと、すべて法を犯したものは同じ基準で起訴し、そして裁判でその罪を裁くべきではないだろうか。そうすれば、犯罪被害者の応報感情を踏みにじることなく、法の正義が貫徹される。

 また、加害者はあくまで法的主体として裁かれ、精神障害者としての危険性など問題にされる必要もなくなる。そこでは精神の障害は犯罪などと無関係の、たんにひとつの病であって、治安管理の眼差しの下におかれるべきものではない。

 当然、精神科医に「犯罪の予測はできなかったのか」などという愚問が、発せられることもない。精神科医は治安管理といった社会的防衛的な役割から解放され、精神医療は純然たる医療行為となるだろうし、またそうならねばならない。

 そして、どんな人間であっても、犯罪事実が厳密に認定されたうえで、違法行為にふさわしい刑罰が科されることになるならば、精神鑑定などという営みも不要になる。

 そもそも精神鑑定が判定せねばならないのは「犯行時」の精神状態であるが、過去の一時期の精神のあり方など再構成できるはずもないし、現に精神鑑定はたんなる「作文」以上のものではないことは、宮崎勤の裁判のときに明らかになったはずだ。

 しかも、精神鑑定は死刑か否かの決定に大きな影響力をもつものだが、人間の生殺与奪などという過大な権限を、精神医学に与えるべきではない。刑事制度における精神医学の役割は、あくまで治療行為に限定されるべきだ。保障すべきは行政施設で精神医療を受ける権利であり、精神医学が努めるべきはそこでの医療の向上だろう。 

芹沢一也『暴走するセキュリティ』(洋泉社新書、2009年3月21日初版発行)P73〜74

 「反精神医学」及び「精神鑑定」とは何かについては、以前にも下記のエントリーで取り上げました。芹沢の主義主張は、日垣センセイのまるで引き写しのように酷似しています。

赤頭巾ちゃん、オオカミ中年に気をつけてー検証・日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(補論D) - KAFKAESQUE(日垣隆検証委員会) 

赤頭巾ちゃん、オオカミ中年に気をつけてー検証・日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(補論C) - KAFKAESQUE(日垣隆検証委員会)

 芹沢は件の『暴走するセキュリティ』(洋泉社新書、2009年3月21日初版発行)だけでなく、『狂気と犯罪』(講談社+α新書、2005年1月20日第1刷発行) 、『ホラーハウス社会』(講談社+α新書、2006年1月20日第1刷発行)でも、一貫して反精神医学に極めて近い立場から、刑法39条、医療観察法、精神鑑定、果ては措置入院まで否定しようとしています。実際、『狂気と犯罪』P220の「主要参考文献」には、『そして殺人者は野に放たれる』があります。また『ホラーハウス社会』でも、日垣センセイに言及している箇所があり、芹沢が日垣センセイの影響下にあると推定されます。

 ちなみに、メディアにおいても、一九九八年、「週刊朝日」に日垣隆氏が「刑法三九条(心神喪失)のタブーを突く」と題する記事を掲載して以来、精神障害者による犯罪の被害者の存在がクローズアップされだしていた。

芹沢一也『ホラーハウス社会』(講談社+α新書、2006年1月20日第1刷発行)P168

 尚、日垣センセイと芹沢の精神障害に対する見解が、反精神医学の創始者の1人、トマス・サズのそれとほぼ一致していることは、精神科医小田晋氏も共著『刑法39条 (心の病の現在) 』(新書館、2006年1月25日初版第一刷発行)P21で指摘しています。また同書の別の個所でも、小田氏は芹沢の『狂気と犯罪』についても、次のように痛烈に批判しています。

 芹沢一也氏の『狂気と犯罪』(講談社)は、刑法三十九条が狂気と犯罪を同一視し、精神障害者を危険視するロジックの根拠になっているとして批判しているが、それは芹沢氏の「思い込み」であろう。犯罪者の一部に精神障害者があり、その人に「常人」なみの処分を与えることが妥当でないからこそ、この規定があるのである。

小田晋、作田明、西村由貴『刑法39条 (心の病の現在) 』(新書館、2006年1月25日初版第一刷発行)P12

 いくら刑法39条などを否定したいからといって、日垣センセイの主張及び『そして殺人者は野に放たれる』を無批判に参照引用しているものなど、ゴミ以外の何物でもありません。芹沢の上記の著作を無反省に評価している評論家の宮崎哲弥呉智英なども、要注意が必要でしょう。

★参考資料

小田晋、作田明、西村由貴『刑法39条 心の病の現在』(新書館、2006年1月25日初版第一刷発行)

Amazonレビュー:感情的対立を煽るだけの悪しきジャーナリズム

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Amazonレビュー:玉石混交

芹沢一也 - Wikipedia

刑法 (日本) - Wikipedia

罪刑法定主義 - Wikipedia

責任主義 - Wikipedia

責任能力 - Wikipedia

刑法学 - Wikipedia

精神鑑定 - Wikipedia

日本国憲法第31条 - Wikipedia

日本国憲法第39条 - Wikipedia

大日本帝国憲法第23条 - Wikipedia

牧野英一 - Wikipedia

SYNODOS -シノドス-

そして殺人者は野に放たれる (新潮文庫)

そして殺人者は野に放たれる (新潮文庫)

暴走するセキュリティ (新書y)

暴走するセキュリティ (新書y)

狂気と犯罪 (講談社+α新書)

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ホラーハウス社会 (講談社+α新書)

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