KAFKAESQUE(日垣隆検証委員会)

主に作家の日垣隆、猪瀬直樹、岩瀬達也、岡田斗司夫、藤井誠二などを検証しているブログです。

The History God Only Knowsー検証・日垣隆「弟の死」の謎

・初めてこのエントリーを読まれる方は「日垣問題の記録」「ガッキィスレまとめサイト@ウィキ」のご一読をおススメします。
※2012/12/09追記:エントリーを更新しました。日垣隆『情報の「目利き」になる!ーメディアリテラシーを高めるQ&A』(ちくま新書、2002年9月20日第一刷発行)P92〜93、P95〜98の記述を検証したリンク先「ナゾノキセキー検証・日垣隆「弟の死」の謎(補論B)」を追加。


日垣隆の公式プロフィール

日垣センセイは公式プロフによると、1958年、長野県生まれです。例えば、代表作『そして殺人者は野に放たれる』(新潮文庫、平成十八年十一月一日発行/平成十九年二月二十日四刷)のカバーにある著者紹介欄にも、以下のように記されています。

日垣隆
Higaki Takashi

1958(昭和33年)年、長野県生れ(原文ママ)。東北大学法学部卒業。「『買ってはいけない』はインチキ本だ」(文春文庫『それは違う!』所収)で文藝春秋読者賞、「辛口評論家の正体」(文芸春秋偽善系II』所収)で編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞・作品賞を受賞。メールマガジン「ガッキィファイター」ほか、ラジオ、テレビでも旺盛な活動を続けている。


上記の経歴は、日垣センセイの他の著作にある著者紹介とも内容的にほぼ一致しており、大差はありません。日垣センセイの誕生年が1958年、出身地が長野県であることなどは、疑問の余地がありません。

また日垣センセイは少年期に、当時13歳だった弟さんを亡くされています。下記は、最も詳細に書かれていて、比較的入手が容易な『少年リンチ殺人―ムカついたから、やっただけ―《増補改訂版》』(新潮文庫、平成二十二年二月一日発行)の記述です。



※2010年

中学生だった私の弟が殺されてから、もう二十年以上が経とうとしているのに、いまだ癒されない自分を、そこに発見して愕然としたのである。
P214〜215



 
自宅に帰って私は、六法全書をひもとき少年法のページに目をとめた。かつて私は、この法律に理不尽を感じて大学は法学部を選んだのである。
 
私の弟は、十三歳でその命を閉じた。両親は、教師たちの過失による「事故」だと、今でも信じようとしているのだが、うすうす気がついているのではないか、と私は感じている。弟と私は同じ中学に同時に在籍していたから、「事故死」のあと、後輩たち(弟の同級生や同学年生)に事情を詳しく聞くことができた。裁判が始まったのは、私が高校に進学して間もなくだった。だがそこには、最も裁かれるべき者が欠けていた。弟を直接、四メートルもある除雪溝に突き落として絶命させたのは当時十三歳の少年だ、という事実を私は直接本人からも、そこに居合わせた者たちからも聞いていた。

相手は、刑法(第四十一条 十四歳に満たない者の行為は、罰しない)および少年法に基づき、取り調べさえ受けなかった。最初から「なかったこと」にされた。だから、私たち遺された家族の怒りは、そのような理不尽な状況に追いやった教師たちに向けられてきた。
 
私はいつか必ず、弟の事件に関する裁判記録を熟読しようと思ってきた。最初は父が、その作業にあたろうとしていたのだが、精神的にまいってしまうほうが先だった。私に全資料をバトンタッチした。しかし、そのようにして家族を失った事件の詳細に踏み込むことは、第三者でないかぎり絶対に堪え難いことだと私は思うのである。だが、本当のことを知りたい、という遺族の思いはけっして小さくなることはない。この二律背反が、いっそう夜明けを遠ざける。

この本を書くために、とりわけ第五章の末尾を書くために、私は今こそ弟の事件に関する全資料をひもとこう、と決意したのだが果たせなかった。二十数年が経っているのに、精神的に変調をきたしてしまうのである。殺した相手が事件のことすら忘れてのうのうと生きているのだ、過去の詳細から逃げる権利くらい私たちにだってあるようにも思える。
P223〜225

日垣隆『少年リンチ殺人―ムカついたから、やっただけ―《増補改訂版》』(新潮文庫、平成二十二年二月一日発行)P214〜215、P223〜225


従来、日垣センセイは「弟を殺された哀しみを背負った言論人」「身内が犯罪被害者」「犯罪被害者の遺族サイドから、少年法、刑法39条の偽善を暴くジャーナリスト」として、論壇・マスコミ・出版業界だけでなく、多くの読者から共感を集めて来ました。実際、2004年度の第3回新潮ドキュメント賞の選考委員の一人だった作家の柳美里氏も、日垣センセイの『そして殺人者は野に放たれる』(新潮社)を受賞作に選んだ理由としてそのことを挙げています*1 。また日垣センセイを「兄貴分」と慕うノンフィクションライターの藤井誠二氏も、『平成21年度「犯罪被害者週間」国民のつどい』の沖縄大会:基調講演にて次のように述べています。


今、日本でフリーのジャーナリストで犯罪被害者の問題をやっているのは、私、藤井誠二と、私の先輩の日垣隆さん。日垣さんは、弟さんが殺された方です。お兄さんが精神障害者の方で、例えば『そして殺人者は野に放たれる』という、日本で最初に精神障害者で人を殺しても無罪になってしまうという問題点をあぶり出した、私の先輩ジャーナリストです。

『平成21年度「犯罪被害者週間」国民のつどい』【沖縄大会:基調講演 テーマ「犯罪被害に遭うということ」講師:藤井 誠二(ノンフィクションライター)】平成21年11月20日(金)13:30〜16:30 沖縄ハーバービューホテルクラウンプラザ2階 彩海の間


このように弟さんの死が「(同級生による)他殺」とみなされてきたことが「犯罪被害者の遺族である日垣隆氏が、加害者に対する厳罰化を要求するのは至極もっともである。そのことに異論を唱えたり、疑義を呈するのは不謹慎だ」として、日垣センセイの主義主張に対する批判を、半ばタブー視する風潮をもたらしてきたと言えます。殺された被害者の人権、その遺族の感情も考えろと。

だが……日垣センセイの弟さんは、本当に「(同級生による)他殺」で亡くなられたのでしょうか?

その死因に関して、日垣センセイの他の著作、雑誌記事などにおける記述の変遷を調べてみると、何とある時期から巧妙に書き換えられていたのです。



●「学校事故で、一三歳でしかなかったわが弟の命を奪われた」「教師たちの重大な過失による学校事故で、命を奪われた」「事故死」との明記が!

日垣センセイは、岩波書店発行の月刊誌『世界』(1990年10月号)のP329〜346に【閉ざされた回路ー神戸「校門圧死」事件の深層】と題した記事を寄せていますが、その中で弟さんの死について下記のように言及しています。



※1990年

十数年前の学校事故で、一三歳でしかなかったわが弟の命を奪われた僕自身の体験からも、それは言えることだ。

日垣隆【閉ざされた回路ー神戸「校門圧死」事件の深層】『世界』(岩波書店、1990年10月号)P346



また日垣センセイは、毎日新聞社発行の週刊誌『エコノミスト』(1992年3月17日号)のP82〜87にて、「家族と人生への考現学--分裂病の兄よ、逝ってしまった弟よ(変容を解く-22-)」というタイトルの記事を執筆していますが、そこでも弟さんの死に関して次のように書いています。



※1992年

今でも、悪夢で、飛び起きることがある。それには二つのパターンがある。

中学時代の僕が、夕食の準備をしている。当時にあっては珍しいことに、両親と兄が外出しており、弟との二人分の食事のため、僕が腕をふるっているのだった。二人は、いつも一緒だった。今から思えば幼稚なことに、寝る時まで手をつないでいた。その翌日、弟以外の家族が揃って談笑しているところへ、ある報せがもたらされる。

僕は、そこで飛び起きるのだ。

悪夢である。が、実際に起こったことだ。その日から、弟は二度と帰らぬ人となった。教師たちの重大な過失による学校事故で、命を奪われたのである。

弟は三日間、生死をさまよった。医師は、仮死状態で意識不明だといった。僕ら二人がずっと従者をつとめていたイタリア人神父が、病室に駆けつけてくれた。その神父が、ルルドの聖水を弟の体にかけた、その時、昏睡状態であった弟が、僕の手をしっかりと握った。そして母の手をとった。「わかるよ、わかる。僕は死にたくないんだよ」と弟はいった。それが最期だった。

僕が心底から神に祈ったのも、それが最後になった。
P84

(略)

それから二ヵ月がたったころ、僕は父に連れられて教育委員会を訪ねた。教員であった父は、その教育長とは旧知の間柄であったらしく、形式的には弟の件で報告と挨拶に立ち寄ったのであったのだが、半時間ほどあれこれの会話が交わされていた。一五歳には退屈な大人たちの会話が途切れるのを待つ間、僕は教育長の机の上にあった、弟の事故報告書を手にとってめくり始めていたのだった。

それまで、教師たちから、事故に関する謝罪を受け、彼らがいかに理不尽な行為のもとに弟を死に追いやったかを僕は直接、耳にしていた。小さな中学校だったから、弟と僕の教え手はほとんど重複していたのである。だが、教育委員会に提出された報告書に書かれてあった内容は、それまでの見聞とは一八○度も違っていた。死亡事故の原因が、すべて弟の不注意に帰せられていたばかりか、中学になって弟が初めてもらった最初で最後の通知表までもが見事に改竄されていたのだった。

僕は父に、そのことを告げた。のちに裁判となり、全面勝訴となったのだが、裁判に勝っても弟の命はむろん、帰ってなどこなかった。そればかりではない。おそらく、教員であった父が、教育行政と同業者を訴えることになったその経過の中で、心身ともに傷ついていったに違いない。悲しみあえぐ家族にあって、一人たしかに凛々しかった父が、ひそかにイタリア人神父の胸を借りて号泣していたのだと聞いたのは、ずっと後になってからである。父がそんな心労から、脳溢血で倒れたのは僕が大学に進学してからのことだった。奇跡的に回復してからも、しかし父は、一連の精神的な打撃から今なお立ち直れていない。
P85

日垣隆「家族と人生への考現学--分裂病の兄よ、逝ってしまった弟よ(変容を解く-22-)」『エコノミスト』(毎日新聞社、1992年3月17日号)P84〜85



さらに、下記の著作等でも以下のように書かれていました。

十数年前の学校事故で、一三歳でしかなかったわが弟の命を奪われた僕自身の体験からも、それはいえることだ。

日垣隆『「ルポ」高校って何だ』(岩波書店、1992年5月18日第1刷発行)P36
※初出・『世界』(岩波書店、1990年10月号)*2


今でも、悪夢で、飛び起きることがある。それには二つのパターンがある。

中学時代の僕が、夕食の準備をしている。当時にあっては珍しいことに、両親と兄が外出しており、弟との二人分の食事のため、僕が腕をふるっているのだった。二人は、いつも一緒だった。今から思えば幼稚なことに、寝る時にまで手をつないでいた。その翌日、弟以外の家族が揃って談笑しているところへ、ある報せがもたらされる。

僕は、そこで飛び起きるのだ。

悪夢である。が、実際に起こったことだ。その日から、弟は二度と帰らぬ人となった。教師たちの重大な過失による学校事故で、命を奪われたのである。

弟は三日間、生死をさまよった。医師は、仮死状態で意識不明だといった。僕ら二人がずっと従者をつとめていたイタリア人神父が、病室に駆けつけてくれた。その神父が、ルルドの聖水を弟の体にかけた、その時、昏睡状態であった弟が、僕の手をしっかりと握った。そして母の手をとった。「わかるよ、わかる。僕は死にたくないんだよ」と弟はいった。それが最期だった。

僕が心底から神に祈ったのも、それが最後になった。

(略)

それから二ヵ月がたったころ、僕は父に連れられて教育委員会を訪ねた。教員であった父は、その教育長とは旧知の間柄であったらしく、形式的には弟の件で報告と挨拶に立ち寄ったのであったのだが、半時間ほどあれこれの会話が交わされていた。一五歳には退屈な大人たちの会話が途切れるのを待つ間、僕は教育長の机の上にあった、弟の事故報告書を手にとってめくり始めていたのだった。

それまで、教師たちから、事故に関する謝罪を受け、彼らがいかに理不尽な行為のもとに弟を死に追いやったかを僕は直接、耳にしていた。小さな中学校だったから、弟と僕の教え手はほとんど重複していたのである。だが、教育委員会に提出された報告書に書かれてあった内容は、それまでの見聞とは一八○度も違っていた。死亡事故の原因が、すべて弟の不注意に帰せられていたばかりか、中学になって弟が初めてもらった最初で最後の通知表までもが見事に改竄されていたのだった。

僕は父に、そのことを告げた。のちに裁判となり、全面勝訴となったのだが、裁判に勝っても弟の命はむろん、帰ってなどこなかった。そればかりではない。おそらく、教員であった父が、教育行政と同業者を訴えることになったその経過の中で、心身ともに傷ついていったに違いない。悲しみあえぐ家族にあって、一人たしかに凛々しかった父が、ひそかにイタリア人神父の胸を借りて号泣していたのだと聞いたのは、ずっと後になってからである。父がそんな心労から、脳溢血で倒れたのは僕が大学に進学してからのことだった。奇跡的に回復してからも、しかし父は、一連の精神的な打撃から今なお立ち直れていない。

日垣隆井出孫六、工藤美代子、島田裕巳『日本人が変わったーふくらんだ泡が弾けて』(毎日新聞社、1992年8月5日印刷/1992年8月20日発行)P203〜204*3



※1993年

私は中学三年で大好きだった弟を学校事故で失い、大学受験を控えた高校二年(原文ママ)のとき、同時受験をすることになった浪人中の兄が、弟の事故の顛末に耐えかねていたこともあって、分裂病*4をきたしていまなお入院したままだ。

日垣隆【<検証>大学の現在-8完-「学歴社会」異論】『世界』(岩波書店、1993年10月号)P144



※1994年

私は中学三年で大好きだった弟を学校事故で失い、大学受験を控えた高校三年のとき、同時受験をすることになった浪人中の兄が、弟の事故の顛末に耐えかねていたこともあって、分裂病をきたしていまなお入院したままだ。

日垣隆『<検証>大学の冒険』(岩波書店、1994年1月27日第1刷発行)P260*5



※1995年

耐えがたい苦悩に直面したとき自死も選択肢の一つだと思えてしまったら、助走は早まる。自死が、同世代または類似した環境下で伝染しやすいのは、選択肢の一つとして脳裏に浮かぶ可能性がメディアによって高まるからだ。私は中学三年生のとき二つ下の弟を学校事故で失い、以来、正直に告白すれば、弟を殺したに等しい教師たちに殺意を抱いてきた。彼らを許す気になるまで一〇年以上がかかった。成人してから大病を患い、薬の副作用なのか寝小便をたれ、私は真剣に自死を思ったことがある。そのさい防波堤になってくれた二人がいる。一人は私を看病したばかりか妻になった。もう一人は亡き弟である。子どもに先立たれた親を間近に見て、これほどの親不孝はないと肝に銘じざるをえなかった。この体験を私は一度だけ文章にしたことがあり、『日本人が変わった』(毎日新聞社*6に収録されている。長女が誕生し、私の病はまだ完治していなかったのだが、その瞬間から、私は一つのことを祈り続けている。学校や会社とは命を奪われない限りにおいて付き合えばよい。そんなものと命を交換してはいけない。その監視は親の義務である。事故発生時だけ学校バッシングに励むのは、子どもの管理強化に手を貸す道なのだ。過労死のケースでも痛感することだが、自死への助走を含む葛藤を抱え始めた場に、愛する者を送り出してはならない。親たちよ、子を死なせてはいけない。子どもたちよ、親に先立たないでください。きょう(原文ママ)もまた私は、祈るしかない。

日垣隆「敢闘言」『エコノミスト』(毎日新聞社、1995年1月3日/1月10日迎春合併号)P11



※1996年

私にとって、二十代で経験した三度の失業など、十代で耐えなければならなかった弟の事故死や、その弟の学校事故を巡って裁判を両親が起こしたという身近な出来事もあってか、法曹界をめざすようになった兄が二十歳で精神分裂病*7を発症しまだ治癒せぬこと、などに比べれば全然どうということはなかった。

日垣隆「情報の技術ー六法よりも奇なり」『RONZA』(朝日新聞社、1996年4月号)P144



※1997年

思えば私にとって、『日本人が変わった』という本に少しばかり詳しく書いてしまったことだが、中学三年生のとき弟を学校事故で亡くして以来、「家族」は今日に至るまでずっと考え抜いてきたテーマの一つである。弟の死を機に、兄が精神病棟に十数年も閉じ込められ、続いて父も母も病に倒れた。私は旧い家族から逃げ必死に新しい家族をつくり、安息の場をもった。

日垣隆『学問のヒント「知」の最前線がわかる本』(講談社現代新書、1997年6月20日第1刷発行)P242〜243



こうして確認してみると、日垣センセイが弟さんの死を取り上げた当初、時期的には1990年〜97年6月頃までは、死因を「学校事故」「教師たちの重大な過失による学校事故」「事故死」と断定していたことが分かります。



●神戸連続児童殺傷事件を機に、死因が「他殺」に……!?

ところが、1997年2月〜5月にかけて発生し、同年6月28日に犯人の少年が逮捕された神戸連続児童殺傷事件を受けて、日垣センセイは当時、『エコノミスト』誌上の連載コラム「敢闘言」にて以下のように言及していたのです。

週刊朝日』七月一一日号に、「見せしめ」として香港で処刑された中国人の頭部がずらりと並んだ写真が載っている。一世紀前のことだ。人は残虐な一面をもっている。その事実は認めたほうがよい。原書房から出た図説三部作『拷問全書』『自殺全書』『死刑全書』を見れば、一層そのことが実感される。他人様はどうだか知らないが、少なくとも私は殺意を抱いた瞬間が何度かあるし、中三の夏、弟を殺した教師たちへの復讐を実行しても二年くらいで出てこれるのではないかと考えたこともある。まだ自分が生きた証などないと思えた当時、復讐が唯一の存在証明になるとさえ中三の私には思えた。あの犯行声明に、「ボクをせめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである」の一文を見つけたとき、私は涙を抑えることができなかった。報道陣は一様に挫折とも殺意とも無縁のエリートばかりなのか、ただ「残酷」「信じられない」「なぜ少年が」を繰り返すばかりである。当時の私と少年を分けたものがあるとすれば、動物殺傷に私は快感を抱かなかったことと、「卒業するまで学校に来るな」と言い放つ教師が私の前には現れなかったということくらいだろうか。思うに、少年は、ある種の自殺をしたのだろう。彼の通う中学の校長は「少年を犯罪に追い込んだ要因は学校側にはない」と言い切った。腐っている。もちろん少年の最大の罪は、まるで病棟のような義務教育から最も自由に生きていた淳君に、刃を向けてしまったことだ。

日垣隆「敢闘言」『エコノミスト』(毎日新聞社、1997年7月15日号)P11



また、講談社発行の月刊誌『現代』(1998年2月〜5月、同年7月号)に全5回に亘って連載された「暴発―長野・少年リンチ殺事件全記録」の最終回【(5)誹謗中傷…遺族が背負う「さらなる苦悩」】において、日垣センセイはこう書いているのです。



※1998年

中学生だった私の弟が殺されてから、もう二十年以上が経とうとしているのに、いまだ癒されていない自分を、そこに発見して愕然としたのである。

日垣隆「暴発―長野・少年リンチ殺事件全記録【(5)誹謗中傷…遺族が背負う「さらなる苦悩」】」『現代』(講談社、1998年7月号)P324



他にも、会員制の月刊誌『Verdad』(ベストブック、1998年12月号)の連載「新ニッポン論」では。

でも熟考のすえ今年十一月の末に、『子どもが大事!』(信濃毎日新聞社刊)*8という本を出すことにした。メジャーな版元ではないので、八千部しか初刷りはないがー。

自分の家族を、職業的な取材者として見る、というのは、読む側からすると笑うしかない光景である。第1章は、私が十五歳のとき、仲の良い弟を殺されたことと、兄が発狂し、家族が崩壊していくその顛末を書いた*9

日垣隆「新ニッポン論 酒鬼薔薇世代をどう描くか」『Verdad』(ベストブック、1998年12月号)P33



さらに、前出の『エコノミスト』(1995年1月3日/1月10日迎春合併号、1997年7月15日号)誌上の連載コラム「敢闘言」に加筆修正し、所収した『敢闘言 さらば偽善者たち』(太田出版、1999年5月22日印刷/1999年5月28日初版発行)P143、267、P55、同書の奥付にある著者紹介欄のプロフィールも、下記のように書かれていました。



※1999年

他方、私の実弟は、刑法上の無能力者*10に殺されている。そのことは、別のところで最近になって初めて書くことができた(近刊『暴発』講談社*11)。
P55


命を奪われない限りにおいて

耐えがたい苦悩に直面したとき自死も選択肢の一つだと思えてしまったら、助走は早まる。自死が、同世代または類似した環境下で伝染しやすいのは、選択肢の一つとして脳裏に浮かぶ可能性がメディアによって高まるからだ。

私は中学三年生のとき二つ下の弟を殺され、以来、正直に告白すれば、弟を殺した者たちに殺意を抱いてきた。彼らを許す気になるまで一〇年以上かかった。

成人してから大病を患い、薬の副作用なのか寝小便をたれ、私は真剣に自死を思ったことがある。そのさい防波堤になってくれた二人がいる。一人は無残な私を二四時間看病したばかりか妻になった。もう一人は亡き弟である。子どもに先立たれた親を間近に見て、これほどの親不孝はないと肝に銘じざるをえなかった。この体験を私は一度だけ文章にしたことがあり、『日本人が変わった』(毎日新聞社*12に収録されている。長女が誕生し、私の病はまだ完治していなかったのだが、その瞬間から、私は一つのことを祈り続けている。学校や会社とは命を奪われない限りにおいて付き合えばよい。そんなものと命を交換してはいけない。その監視は親の義務である。事故発生時だけ学校バッシングに励むのは、子どもの管理強化に手を貸す道なのだ。

過労死のケースでも痛感することだが、自死への助走を含む葛藤を抱え始めた場に、愛する者を送り出してはならない。親たちよ、子を死なせてはいけない。子どもたちよ、親に先立たないでください。きょう(原文ママ)もまた私は、祈るしかない。

ときどき不可解に思うことがある。葛藤もなしに説教を垂れてしまえる人々の脳内をー。
P143


人は残虐な一面をもっている

週刊朝日』七月一一日号に、「見せしめ」に香港で処刑された中国人の頭部がずらりと並んだ写真が載っている。一世紀前のことだ。人は残虐な一面をもっている。その事実は認めたほうがよい。図説三部作『拷問全書』『自殺全書』『死刑全書』(原書房)を見れば、その実感はさらに強まる。他人様はどうだか知らないが、少なくとも私は殺意を抱いた瞬間が何度かあるし、中三の夏、弟を殺した者たち*13への復讐を実行しても二年程度で出で(原文ママ)これるのではないかと考えたことも実際ある。まだ自分の生きた証などないと思えた当時、復讐が唯一の存在証明になるとさえ中三の私には思えた。あの犯行声明に、「ボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである」の一文を見つけたとき、私は思わず息をのんだ。報道陣は一様に挫折とも殺意とも無縁のエリートばかりなのか、ただ「残酷」「信じられない」「なぜ少年が」を繰り返すばかりだった。当時の私と少年を分けたものがあるとすれば、動物殺傷に私は快感を抱かなかったことと、殺意を和らげてくれる友達や彼女がいた、ということくらいだろうか。

思うに、少年は、ある種の自殺をしたのだろう。

彼の通う中学の校長は「少年を犯罪に追い込んだ要因は学校側にはない」と言い切った。腐っている。もちろん少年の最大の罪は、まるで病棟のような義務教育から最も自由に生きていた淳君に、刃を向けてしまったことだ。

一億二〇〇〇万人もいれば、一人くらいあのような少年は出現してしまうのだろう。なお、校長が卒業式後にストリップに直行するのは御自由だが、他人に見つかる覚悟が彼らには欠落している。
P267


日垣隆

作家、ジャーナリスト。1958年、長野県生まれ。中三で弟を殺され、高三のとき兄が分裂病に、家族は崩壊する。東北大学法学部在学中に学生結婚。卒業直前に大病を患い、体重が減ったほかは奇跡的に快復。あとはオマケの人生と腹をくくる。販売員、書店員、配送係、歩合制のセールスマン、出版社の営業兼コンピュータ担当兼編集を経て、87年に独立。

29歳で処女作『されど、わが祖国』を上梓。その後の主な著作として、『大学の冒険』『松代大本営の真実』『ご就職』『学問のヒント』『子どもが大事!』『暴発』など。ドキュメント番組の企画、ラジオ番組のパーソナリティも務める。死にかけたのは総計三回、失業も三回、うち倒産が一回、子どもは三人。仕事部屋は、長野市と豊島区にある。

日垣隆『敢闘言 さらば偽善者たち』(太田出版、1999年5月22日印刷/1999年5月28日初版発行)P55*14、P143、P267、奥付(頁数不明)*15



そして、上記の『現代』での連載記事を元に日垣センセイが加筆修正して、1999年7月頃に発売された『少年リンチ殺人「ムカつくから、やっただけ」』(講談社、1999年6月30日第1刷発行)では、前述の文庫版(日垣隆『少年リンチ殺人事件―ムカついたから、やっただけ―《増補改訂版》』)同様、以下のような記述になっているのです。

中学生だった私の弟が殺されてから、もう二十年以上が経とうとしているのに、いまだ癒されない自分を、そこに発見して愕然としたのである。*16
P222



 
自宅に帰って私は、六法全書をひもとき少年法のページに目をとめた。かつて私は、この法律に理不尽を感じて大学は法学部を選んだのである。
 
私の弟は、十三歳でその命を閉じた。両親は、教師たちの過失による「事故」だと、今でも信じようとしているのだが、うすうす気がついているのではないか、と私は感じている。弟と私は同じ中学に同時に在籍していたから、「事故死」のあと、後輩たち(弟の同級生や同学年生)に事情を詳しく聞くことができた。裁判が始まったのは、私が高校に進学して間もなくだった。だがそこには、最も裁かれるべき者が欠けていた。弟を直接、四メートルもある除雪溝に突き落として絶命させたのは当時十三歳の少年だ、という事実を私は直接本人からも、そこに居合わせた者たちからも聞いていた。

相手は、刑法(第四十一条 十四歳に満たない者の行為は、罰しない)および少年法に基づき、取り調べさえ受けなかった。最初から「なかったこと」にされた。だから、私たち遺された家族の怒りは、そのような理不尽な状況に追いやった教師たちに向けられてきた。
 
私はいつか必ず、弟の事件に関する裁判記録を熟読しようと思ってきた。最初は父が、その作業にあたろうとしていたのだが、精神的にまいってしまうほうが先だった。私に全資料をバトンタッチした。しかし、そのようにして家族を失った事件の詳細に踏み込むことは、第三者でないかぎり絶対に堪え難いことだと私は思うのである。だが、本当のことを知りたい、という遺族の思いはけっして小さくなることはない。この二律背反が、いっそう夜明けを遠ざける。

この本を書くために、とりわけ第五章の末尾を書くために、私は今こそ弟の事件に関する全資料をひもとこう、と決意したのだが果たせなかった。二十数年が経っているのに、精神的に変調をきたしてしまうのである。殺した相手が事件のことすら忘れてのうのうと生きているのだ、過去の詳細から逃げる権利くらい私たちにだってあるようにも思える。
P231〜232


著者略歴*17

被害者の母親の慟哭に接したことに始まる「少年リンチ殺人」の取材は、かつて十三歳で殺された、著者自身の実弟とその加害者に、再び思いをめぐらす旅でもあった。

日垣隆『少年リンチ殺人「ムカつくから、やっただけ」』(講談社、1999年6月30日第1刷発行)P222、P231〜232*18、カバー及び奥付(頁数不明)



以後、日垣センセイは弟さんの死について著作などで次第に「(同級生による)他殺」を前面に押し出していきます。以下は、それらが記された著作等の該当部分です。



※2000年

日垣 二十数年前に当時中学1年生だった自分の弟が殺されたのですが、14歳未満の者は刑法による罰を受けないということに関して、じゃあ弟は誰に殺されたんだという思いがずっとありました。

伊藤芳朗、河村建夫、武るり子、日垣隆【激論!どうにかならんか「少年法​」】『サンデー毎日』(毎日新聞社、2000年6月25日号)P148


私は『少年リンチ殺人』(講談社、九九年)という本のあとがき*19に一度だけ書き、もうあまり思い出したくもないので詳しく触れることは避けたいのだが、同じ中学に通っていた仲のいい弟を何の意味もなく殺され、直接手を下した者が十三歳だったため、少年院はおろか教護院(教護院に処遇するためには犯人である少年の親の同意が必要なのである)にすら入ることなく、翌日から中学に登校してきた。彼は周囲には何も知られず、いつもどおり笑っていた。顔が引きつったのは、兄である私と廊下ですれ違うときくらいだった。これが少年法にいう更生なのか。まるで犯罪そのものが存在しないかのようであり、教師たちはその事実を隠しとおし、あたかも弟は勝手に事故でも起こして消失したかのような扱いを受け続けた。

日垣隆偽善系 やつらはヘンだ!』(文藝春秋、2000年9月10日第一刷)P85


身内のことはあまり書きたくなかったのですが、僕自身も、13歳の弟を殺された体験があることは、別に隠すべきことではないと思っています。最近、法廷で実際起こった事件のように、被害者の家族が加害者に対して殴り掛かったり、殺してやりたいと思うこともあるでしょう。私もそう思っていた。にもかかわらず、現実に殺された人の家族は誰も復讐していない。なぜ、みんなそうしないのか?という問題意識ぐらい、誰もが持ってほしい、と思いますね。

日垣隆「マスコミも、これまで被害者を無視してきたことを反省しなくてはならない」『SAPIO』(小学館、2000年12月6日号)P47



田丸 改正といえば少年法ですが、少年法に関して日垣さんは、本でもお書きになっていますが、ご自分の弟さんが十三歳の同じ学校に通う同級生に殺された経験があって、それ以来、二十年以上考えていらっしゃるということですね。

日垣 ええ。あまりにもひどすぎると思ったのは、こっちは弟の葬式をやるのに学校を一週間も休んでいるのに、加害者のほうは犯行の翌日から学校に行って、ニコニコしているわけですよ。

田丸 警察の取り調べもないんですか。

日垣 ないですよ。つまり、加害者は十三歳なので、少年法にも刑法にもひっかかりません。親が同意しなければ教護院にも行かなくてすむわけです。僕はそのとき中学三年生だったのですが、少年法を読んで、本当にびっくりしました。

田丸美寿々、新恵里、日垣隆婦人公論井戸端会議 犯罪被害者を支えるために」『婦人公論』(中央公論新社、2000年12月7日号)P177



※2001年

私にとって、二十代で経験した三度の失業など、十代で耐えねばならなかった弟の死や、その事件を巡って裁判を両親が起こしたという身近な出来事もあってか、法曹界をめざすようになった兄が二十歳で精神分裂病を発症しまだ治癒せぬこと、などに比べれば全然どうということはなかった。
P272

解説 日垣隆*20

(略)

ある本に付された著者プロフィールには、こうある。
《作家、ジャーナリスト。1958年、長野県生まれ。中3で弟を殺され、高3のとき兄が分裂病に、家族は崩壊する。東北大学法学部在学中に学生結婚。卒業直前に大病を患い、体重が減ったほかは奇跡的に快復。あとはオマケの人生と腹をくくる。販売員、書店員、配送係、歩合のセールスマン、出版社の営業兼コンピュータ担当兼編集を経て、87年に独立。
 
29歳で処女作『されど、わが祖国』を上梓、その後の主な著書として、『大学の冒険』『「松代大本営」の真実』『ご就職』『学問のヒント』『子どもが大事!』『少年リンチ殺人』など。軟派小説、悲喜劇番組の企画、ラジオ番組のパーソナリティも務める。死にかけたのは総計三回、失業も三回、うち倒産が一回。》
 
部分的なプロフィールにすぎないのだが、読み手によっては、えらいこっちゃと思う方もおられるかもしれない。これは編集者の手によってピックアップされたものだ。本人が書いた単行本を読めば、以上のような”経歴”を摘出することは比較的容易である。つまり彼は、全然有名でないくせに、よく自分を語っているということになる。
P517

日垣隆『情報系 これがニュースだ』(文春文庫、2001年3月10日第1刷)P272、P517*21


日垣 先ほどちょっと触れたように私自身も、中学生だった弟を殺されています。同じ中学に通っていましたから、何が起きたかということはよく知っているのですけれど、相手が(刑法や少年法でも罪を問えない)十三歳でしたから、何もなかったこと(あたかも勝手に死んだよう)になって、結局それからずっと、そのことをどういうふうに総括していいか不明のままです。他人に話してもいいものかどうかもわからないし、家族でもその話がほとんどできませんでした。
P22〜23

日垣 家族の一人が欠落してしまうわけですよね、突然。うちの弟の事件では、父親はしばらく“毅然とした父親”をやっていたのですが、結局やっぱり精神的に病んでいってしまう。兄も三年後に、おかしくなってしまった。今もまだ精神病院への入退院を繰り返しています。

僕も弟と同じ中学生でしたから、弟の学生服のボタンを自分の服につけて形見にしようと思ったわけですが、母親から見れば、何てことをするんだ、みたいな、そういうちょっとしたことが引き金で、いくらでも家庭崩壊を促す要因には満ち溢れている。なのに加害者側は、のうのうと翌日から学校に来るわけです。たぶん、加害者やその家族は一日も早く「忘れよう」とするのでしょう。つまり、加害者の家族は団結に向かいやすいのに、被害者遺族がどんどん何かにつけて自分たちを責めてゆく。あまりに対照的です。
P24 

日垣 うちの母親もそうでした。私の弟が、蒲団の上ではなく、コンクリートに頭を打ちつけられて意識を失っていったことを思うと、そういう感情が湧き出てしまうのでしょう。
P26

日垣  あの、ちょっと自分のことで今思い出したことがあります。弟が殺されて結局“学校事故”っていうことで処理されたのですけど、葬式などがあって十日間くらいしてから、ようやく僕は学校に行くんですね。クラスメートも、どうやって声をかけていいかわからなかったみたい。十日ぶりで登校した日に、確率統計に関する数学の授業があって、教科担任は一人ずつ順番に兄弟姉妹の数をいわせたんですよ、全員にね。「三人です」とか「一人です」とかって答えさせていく。その数学の先生は、十日前に俺の弟が殺されていることは百も二百も承知なわけです。承知しているどころか、弟の事件で教育委員会へ虚偽の報告をした責任者が、まさにその数学の担任だった。俺としてはそいつの顔を見ながら授業を受けているだけで、十年分のエネルギーを使い果たしているっていう感じです。僕は四人兄弟だったのですが、十日前に弟が殺されている。順番が近づくにつれ、教室から逃げ出せないかって。汗もびっしょりかいちゃって。でも、順番が回ってきた。俺のなかでは立派に弟は生きていたので、「四人です」って答えたら、「お前のとこ、三人になったじゃないか」って、その数学の教師にいわれて、ちょっと僕はそれからしばらく放心状態になってしまった時期がありました。毎朝、親が悲しむから家は出るんだけど、繁華街のゲームセンターなんかに本物の悪友と行ってました。本当のことをいうと、今でも親しいその悪友が気を紛らわせてくれたおかげで、犯人や教師を殺さずに済んだんですけどね。

クラスメートはクラスメートで、生徒会の呼びかけかなんかあったらしくて、亡くなった弟のために、カンパをやるなんていってくれたのはまあいいとして、全然集まらない。せいぜい何百円とか入ったまま、カンパ袋が学校中にヒラヒラ揺れているわけ。今でも夢に見ますよ。
P36〜37

日垣隆サイエンス・サイトーク いのちを守る安全学』(新潮OH!文庫、2001年3月10日発行)P22〜23、P24、P26、P36〜37


これが最後になるかもしれない――。
 
そう思ったのは、一五歳のときだ。二歳下の弟が殺され、突然、帰らぬ人となった。その前夜、珍しく他の家族が外出していた。弟と俺が二人で料理をつくり、それが最後の晩餐になってしまった。本当にお恥ずかしい話だが、あれ以来、俺は料理をまともに作れない。君たちから誘われてのトランプーゲームを断わったことがほとんどないのも、あのとき、弟に誘われて「明日にしよう」と言ってしまって以来のことだ。
 
トラウマというほどのものではない。いつでも克服できるし、未だに何かを恐れているわけでもない。だが、弟を殺した者たちに対する殺意は、ごく最近まで非常に強烈にあった。

(略)

さて、ここで「伯父さん」の話に戻す。二十歳の冬の火事より二年前、弟が殺されて三年後の冬の真夜中、兄が発狂した。

日垣隆、近藤誠、山田太一吉本隆明ほか『死の準備』(洋泉社、2001年7月21日初版発行)P146



※2002年

【※註 前記の日垣隆『敢闘言 さらば偽善者たち』(太田出版、1999年5月22日印刷/1999年5月28日初版発行)P143の記述と同一である。】
P128〜129


人は残虐な一面をもっている

週刊朝日』七月一一日号に、「見せしめ」に香港で処刑された中国人の頭部がずらりと並んだ写真が載っている。一世紀前のことだ。人は残虐な一面をもっている。その事実は認めたほうがよい。図説三部作『拷問全書』『自殺全書』『死刑全書』(原書房)を見れば、その実感はさらに強まる。他人様はどうだか知らないが、少なくとも私は殺意を抱いた瞬間が何度かあるし、中三の夏、弟を殺した者たち*22への復讐を実行しても二年程度で出てこれるのではないかと考えたことも実際ある。まだ自分の生きた証などないと思えた当時、復讐が唯一の存在証明になるとさえ中三の私には思えた。あの犯行声明に、「ボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである」の一文を見つけたとき、私は思わず息をのんだ。報道陣は一様に挫折とも殺意とも無縁のエリートばかりなのか、ただ「残酷」「信じられない」「なぜ少年が」を繰り返すばかりだった。当時の私と少年を分けたものがあるとすれば、動物殺傷に私は快感を抱かなかったことと、殺意を和らげてくれる友達や彼女がいた、ということくらいだろうか。

思うに、少年は、ある種の自殺をしたのだろう。

彼の通う中学の校長は「少年を犯罪に追い込んだ要因は学校側にはない」と言い切った。腐っている。もちろん少年の最大の罪は、まるで病棟のような義務教育から最も自由に生きていた淳君に、刃を向けてしまったことだ。

一億二〇〇〇万人もいれば、一人くらいあのような少年は出現してしまうのだろう。なお、校長が卒業式後にストリップに直行するのは御自由だが、他人に見つかる覚悟が彼らには欠落している。
P299〜300

日垣隆『敢闘言 さらば偽善者たち』(文春文庫、2002年4月10日第1刷)P128〜129、P299〜300*23
初出・日垣隆「敢闘言」『エコノミスト』(毎日新聞社、1995年1月10日号)P11*24


【※註 下記のリンク先で検証している。】
ナゾノキセキー検証・日垣隆「弟の死」の謎(補論B) - KAFKAESQUE(日垣隆検証委員会)

日垣隆『情報の「目利き」になる!ーメディアリテラシーを高めるQ&A』(ちくま新書、2002年9月20日第一刷発行)P92〜93、P95〜98



※2003年

【※註 前記の日垣隆偽善系 やつらはヘンだ!』(文藝春秋、2000年9月10日第一刷)P85の記述と同一である。】

日垣隆偽善系―正義の味方に御用心!』(文春文庫、2003年5月10日第1刷/2006年12月20日第2刷)P87*25


私の弟は理不尽に殺され、兄は長く精神分裂病に罹患したままです。もちろん、こうした経験があったからこの本が書けた、ということはないと思います。

ただ一〇年ほど前、「入院仲間がときどき人を殺したくなると言っている」と兄が私に話してくれたことがあり、そのとき、ああこの問題から逃げてはいけない、と自覚したのは確かです。

犯罪や事故で遺族になった体験は、少なくとも、あらゆる事件取材を通じて被害者の存在を無視しない、という厳格な縛りをもたらしてくれたことだけは疑いありません。これは当然もつべき視点ではありますが、これまで日本の書き手は、ノンフィクションでもフィクションでも、ひたすら犯人側の「動機」に寄り添うのが常で、被害者や遺族に襲いかかる喪失感や理不尽さを描くことは、まずありませんでした。

加えて一面的な”人権”意識から、この問題を安易にタブー視してしまうという悪循環が、これまで日本のマスコミ界にあったように思います。被害者遺族としての実体験と、身内に精神障害者がいる、という二つの事実を、私の中で何とか統一できたらと願いながら長い調査と取材を続けてきました。

日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(新潮社、2003年12月20日発行)P251



※2006年

中学時代、私の弟が殺されたとき、母も仔犬をもらってきた。その犬もやがて死に、もう二度と飼いたくないと言ったのを思い出す。
P66

もちろん、子どもの命が突然奪われることほど切ない事件はない。最近、私は父を喪ったが、順番どおりなので動じなかった。けれども、13歳の弟を殺された喪失感は、今でもまったく薄れることはない。
P188

日垣隆『急がば疑え!』(日本実業出版社、2006年2月10日初版発行)P66、P188
※初出・日垣隆「敢闘言」『エコノミスト』(毎日新聞社、2002年7月1日号、2004年12月6日号)


【※註 前記の日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(新潮社、2003年12月20日発行)P251の記述と同一である。】

日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(新潮文庫、平成十八年十一月一日発行/平成十九年二月二十日四刷)P301〜302



※2007年

私の弟は一三歳で殺され、兄は二〇歳から精神病をわずらい今も入院を続けている。兄弟喧嘩など、したくても、できない。

日垣隆『個人的な愛国心』(角川oneテーマ21、2007年1月10日初版発行)P122


初めてウツ病の発症を身近で見たのは、父である。私が高校1年生だったから、いま指折り数えてみると、そのころの父は現在の私と同い年だ。その1年前、次男(私にとっては弟*26)が他人に殺され、帰らぬ人となった。

何の罪もない中学生が突然殺される。それほど理不尽なことはない。ウツにならないほうがどうかしている。

日垣隆【誤謬 ウツ病患者諸兄、「空気を読む」のを止めて「空気を抜こう」 】『SAPIO』(小学館、2007年10月24日号)P72



※2009年

私が初めて裁判を傍聴したのは一九七五年、高校一年生のときでした。少年事件で亡くなった弟の裁判です。少年事件は被害者にも非公開なので傍聴できないのですが、両親が損害賠償を求める民事裁判を起こしたので、そこについて行って傍聴席にいました。

日垣隆『裁判官に気をつけろ!』(文春文庫、2009年6月10日第1刷)P22〜23*27


中学三年生の夏、弟を殺された。高校三年生の夏、兄が発狂した。弟は医者になりたいと願っており、兄は弁護士になりたいと思っていた。私は革命家かスパイか首相になりたかった。アホだったのである。

日垣隆『怒りは正しく晴らすと疲れるけれど』(ワック、2009年8月8日初版発行)P269〜270


【※註 前記の『死の準備』(洋泉社、2001年7月21日初版発行)の再録であり、記述は同一である。】

日垣隆『戦場取材では食えなかったけれど』(幻冬舎新書、2009年11月30日第一刷発行)P28〜29



※2011年

TBS社員から私に直接送られたメールもあった。

《お前はキチガイだ。弟が殺されて発狂して未だに精神病院に入院している兄のお隣のベッドに、お前も入院して、ずっと寝てろ。》

名前もアドレスも特定できた。以前にTBSディレクターとしてメールを何度かもらったことがある正真正銘の社員だ。

私は、返答した。

《TBSの一部暴言大好きな方々へ。想像してみてほしい。私の弟は中一の夏に殺されました。衝撃で兄が心の均衡を崩して入院し、今に至ります。父も母も数年に亘り、身体を壊しました。当時十代の私は、毎日泣きながらも、自分は鈍感なのか、と苦しんだ。凶悪犯罪は被害者家庭を崩壊させるのですよ》と――。
P177

私も年齢の割には、身近な人をたくさん喪ってきた。

とりわけ、弟を中学で殺されて以来、私も他の(当時の)家族も、数年間は全く笑わなくなった。

生き残った者が楽しく生きようとすることに、抵抗感が出る。おいしいものにも、手を出しにくい。

他殺であってさえ、遺族が理不尽な「罪悪感」を抱く事実は、理解していただければと思う。
P221

日垣隆電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。』(講談社、2011年4月28日第1刷発行)P177、P221


【※註 日垣隆『情報系 これがニュースだ』(文春文庫、2001年3月10日第1刷)P272の記述と同一である。】

日垣隆『情報への作法』(講談社プラスアルファ文庫、2011年9月20日第1刷発行)P266*28


……このように、日垣センセイは弟さんの死因を「学校事故」「教師たちの重大な過失による学校事故」「事故死」から、1997年の神戸連続児童殺傷事件を境に「他殺」、翌1998年〜1999年にはさらに踏み込んで「(同級生による)他殺」と修正して現在に至っています。



●例外も存在するが……

ただし、前記した『エコノミスト』(1997年7月15日号)のコラム「敢闘言」以降の著作の中で、例外も三冊ありました。一冊目は、上記の朝日新聞社発行の月刊誌『RONZA』(1996年4月号)の記事「情報の技術ー六法よりも奇なり」(P144〜151)に加筆修正して所収した『情報の技術』(朝日新聞社、1997年10月20日第1刷発行)。二冊目は例の『エコノミスト』の記事「変容を解く」に日垣センセイが手を加えて所収した『子どもが大事!』(信濃毎日新聞社、1998年11月26日初版発行)であり、三冊目は『「ルポ」高校って何だ』(岩波書店)及び『<検証>大学の冒険』(岩波書店)の合本である『「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか』(北大路書房、1999年11月30日初版第1刷印刷/1999年12月10日初版第1刷発行)です。



※1997年

【※註 前記の日垣隆「情報の技術ー六法よりも奇なり」『RONZA』(朝日新聞社、1996年4月号)P144の記述と同一である。】

日垣隆『情報の技術ーインターネットを超えて』(朝日新聞社、1997年10月20日第1刷発行)P225〜226



※1998年

神よ


今でも悪夢で、飛び起きることがある。

中学時代の僕が、夕食の準備をしている。当時にあっては珍しいことに、他の家族が外出しており、弟との二人分の食事のため、僕が腕をふるっているのだった。二人は、いつも一緒だった。その翌日、弟以外の家族が揃って談笑しているところへ、ある報せがもたらされる。

僕は、そこで飛び起きるのだ。

悪夢である。が、実際に起こったことだ。その日から、弟は二度と帰らぬ人となった。教師たちに、命を奪われたのである。

弟は三日間、生死をさまよった。医師は、仮死状態で意識不明だといった。僕ら二人がずっと侍者をつとめていたイタリア人神父が、病室に駆けつけてくれた。その神父が、ルルドの聖水を弟の体にかけた、その時、昏睡状態であった弟が、僕の手をしっかりと握り、そして母の手をとった。

「わかるよ、わかる。僕は死にたくないんだよ」と弟はいった。

それが最期だった。

僕が心底から神に祈ったのも、それが最後になった。
P15

(略)

それから二ヵ月がたったころ、僕は父に連れられて教育委員会を訪ねた。高校教師であった父は、その教育長とは旧知の間柄であったらしく、形式的には弟の件で報告と挨拶に立ち寄ったのだった。半時間ほどあれこれの会話が交わされていた。一五歳には退屈な大人たちの会話が途切れるのを待つあいだ、僕は教育長の机の上にあった、弟の事故報告書を手にとってめくり始めていたのだった。

それまで、教師たちから、致死事件に関する謝罪を受け、彼らがいかに理不尽な行為のもとに弟を死に追いやったかを僕は直接耳にしていた。だが、教育委員会に提出された報告書に明記されていた内容は、それまでの見聞とは一八○度も違っていたのである。死亡の原因が捏造され、なんと弟の不注意に帰せられていたばかりか、中学になって弟が初めてもらった最初で最後の通知表までもが見事に改竄されていたのだった。不注意な生徒というイメージをもたせるために、報告書のうえで成績を落とすことが彼らには必要だったのだろう。

その場で僕は父と教育長に、そのことを告げた。のちに裁判となり、全面勝訴となったのだが、裁判に勝っても弟の命はむろん、帰ってなどこなかった。そればかりではない。おそらく、教員であった父が、教育行政と同業者を訴えることになったその経過の中で、心身ともに傷ついていったに違いない。悲しみあえぐ家族にあって、一人たしかに凛凛しかった父が、ひそかにイタリア人神父の胸を借りて号泣していたのだと聞いたのは、ずっとあとになってからである。父がそんな心労から、脳溢血で倒れたのは僕が大学に進学してからのことだった。奇跡的に回復してからも、しかし父は、一連の精神的な打撃から今なお立ち直れていない。
P16〜17

日垣隆『子どもが大事!』(信濃毎日新聞社、1998年11月26日初版発行)P15〜17*29



※1999年

十数年前の学校事故で、一三歳でしかなかったわが弟の命を奪われた僕自身の体験からも、それはいえることだ。
P43〜44

私は中学三年で大好きだった弟を学校事故で失い、大学受験を控えた高校三年のとき、同時受験をすることになった浪人中の兄が、弟の事故の顛末に耐えかねていたこともあって、分裂病をきたしていまなお入院したままだ。
P259

日垣隆『「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか』(北大路書房、1999年11月30日初版第1刷印刷/1999年12月10日初版第1刷発行)P43〜44、P259



『情報の技術ーインターネットを超えて』(朝日新聞社)の奥付を確認すると、「1997年10月20日第1刷発行」。『子どもが大事!』(信濃毎日新聞社)の奥付には「1998年11月26日初版発行」が。一方、『「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか』(北大路書房)の奥付には「1999年11月30日初版第1刷印刷/1999年12月10日初版第1刷発行」とあります。他方、前出のコラム「敢闘言」が掲載されたのは『エコノミスト』(1997年7月15日号)。時期的には、前者(『情報の技術』『子どもが大事!』、『「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか』)は後者(「敢闘言」『エコノミスト』)よりも後に刊行されていますから、この頃は記述の整合性を合わせるための書き換えが充分なされていなかった可能性もあります。

また著作及び雑誌記事ではありませんが、長野県飯田高等学校で2002年1月に発生した生徒刺殺事件を検証していた飯田高等学校生徒刺殺事件検証委員会の教育関係者との懇談会にて、検証委員の一人だった日垣センセイは、こう発言しています。



※2003年

日垣委員

日垣隆といいます。ジャーナリストをしています。家族は長野県に住んでおりまして、県内の高校から大学に進学している娘と、今年高校を卒業し大学に入学する子と、中学を卒業して高校に入学する末子がいる父親でもあります。また私自身、中学生の時、学校事故で弟を亡くした体験を持っています。ですから教育問題や学校事故の問題については、とりわけ関心を持って取り組んで参りました。親としては、学力を付けるとか、部活を頑張って欲しいとか思う以上に、学校で安全に過ごして欲しいと考えています。この委員会には被害者である小野寺さん、そして教育委員会からも委員が加わると聞き、私も委員となる決心をいたしました。宜しくお願いいたします。

『飯田高等学校生徒刺殺事件検証委員会 教育関係者との懇談会 会議録要旨』
日時:平成15年3月25日(火)13:30〜16:30
場所:長野県庁議会棟 401会議室
出席委員:小野寺勝 小林博省 古原正之 田中善二 日垣隆 保高喬雄 三浦久 毛利正道 山口恒夫 山口利幸 (以上10名敬称略)


ここでも「私自身、中学生の時、学校事故で弟を亡くした体験を持っています。」と断言しているのです。著作及び雑誌記事などの活字媒体とは異なり、地元の、それも長野県庁という公的機関だったこともあってなのか、弟さんの死について何故か「(同級生による)他殺」という趣旨の発言をしていません。流石にごまかしようがなかった可能性も……。



●「身内が犯罪被害者」の方が都合がよかったから?

ともあれ、以上の事柄を検証していると、どうにも腑に落ちないというか、不可解な部分が多過ぎます。何故、日垣センセイは経歴をこっそり書き換えるような、或いはそう誤解されるようなことをしていたのでしょうか。

ここからは、あくまで個人的な推測ですが……少年犯罪ならびに犯罪被害者サイドを取材し、自説を展開していくには、その方が色々と都合がよかったからでは。第一、犯罪被害者の遺族も同じ境遇の(可能性がある)方が相手なら、心を開いて取材に応じてくれる確率も高いと言えます。

実際、日垣センセイは、2001年11月18日に開催された全国犯罪被害者の会第3回全国犯罪被害者の会 シンポジウム・総会にも、パネリストして参加するなど、弟さんの死因を「(同級生による)他殺」と修正して以降は、精力的に犯罪被害者サイドと接触していきました。最も、現在は不明ですが。



いずれにせよ、この問題はできれば取り上げたくはなかったのですが……日垣センセイ自身が頻繁に書いており、しかもその記述が食い違っていたこと。そして弟さんが亡くなった「事件」が、日本の戦前から戦後に至るまで、あらゆる少年犯罪を扱った少年犯罪データベースの、1972年(昭和47年)〜1974年(昭和49年)に該当するものがないこと。何よりも日垣センセイご自身が、Amazonレビュー:「取材を忘れたルポライター」のコメント欄にて、下記のように支離滅裂な釈明をしていることから、敢えて検証に踏み切りました。

2011/10/22 6:56:32:JST
アーサーさんのコメント:
少年法の規制があるためです。
光市母子殺害事件の本村さんも、法務省から警告と訂正を強いられました。
それにしても、この1カ所の訂正(とも言えない。法務省にも理解してもらいました)に対するこの無神経――他人の家族の少年法上の「事件死」を、人として、とても哀しい方だと思います。
日垣 隆

2011/10/22 6:59:28:JST
アーサーさんのコメント:
人としての品格を疑います。無知もまた。

ややこしいようですが、アーサーというのは、現在は「懸垂二百回」という公開名です*30。その正体は……いわずもがなでしょう。

日垣センセイは、「少年法の規制があるためです。」「光市母子殺害事件の本村さんも、法務省から警告と訂正を強いられました。」と仰られていますが、これだけでは論旨が不明確で、分かりません。

ここからはまた推測ですが……多分、少年法61条のことではないかと考えられます。

(記事等の掲載の禁止)

第61条 家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であること推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。

少年法61条(記事等の掲載の禁止)


条文をしっかり読めば理解できますが、この規定は犯人と思われるような書き方を規制しているだけであって、少年犯罪事件の被害者サイドが、自分たちの被害経験を公開しただけでは61条違反とはなりません。そもそも罰則規定もなく、わざわざ法務省へ事前報告する義務も存在しません。

また「光市母子殺害事件の本村さんも、法務省から警告と訂正を強いられました。」とありますが、これも事実誤認というか、明らかな間違いです。そもそもは『週刊新潮』(2000年3月28日号)に掲載された本村洋氏の手記に、少年の実名が明記され、写真も添付してあったため、東京法務局が61条違反として『週刊新潮』編集部に謝罪を求めて抗議。これに対して、本村氏が記者会見で「実名掲載を希望したのは自分」であり、編集部ではなく自分に言うべきと応じたのが、大体の経緯です。

要するに、問題となったのは「実名」「写真」を公表するか否かであり、犯人が少年なら「事故死」として公表しなければならないわけではありません。念のため。

……言い訳にもならない「言い訳」まで書き連ねて、日垣センセイは本当に何がしたかったのでしょうか。真相は闇の中です。



★参考資料

Amazonレビュー:「取材を忘れたルポライター」

日垣問題の記録

日垣問題の記録 ~ 日垣隆 研究報告 ~: 日垣隆氏による兄弟(弟)についての記述・発言一覧

日垣問題の記録 ~ 日垣隆 研究報告 ~: 「日垣隆氏による弟についての記述」への疑問

少年犯罪データベース

少年法 - Wikipedia

少年法

光市母子殺害事件 - Wikipedia

山口母子殺人事件

全国犯罪被害者の会 - Wikipedia

飯田高等学校生徒刺殺事件検証委員会 教育関係者との懇談会 会議録要旨

少年リンチ殺人―「ムカつくから、やっただけ」

少年リンチ殺人―「ムカつくから、やっただけ」

少年リンチ殺人―ムカついたから、やっただけ―《増補改訂版》 (新潮文庫)

少年リンチ殺人―ムカついたから、やっただけ―《増補改訂版》 (新潮文庫)

「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか

「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか

敢闘言―さらば偽善者たち (文春文庫)

敢闘言―さらば偽善者たち (文春文庫)

情報系 これがニュースだ (文春文庫)

情報系 これがニュースだ (文春文庫)

情報への作法 (講談社+α文庫)

情報への作法 (講談社+α文庫)

偽善系―正義の味方に御用心! (文春文庫)

偽善系―正義の味方に御用心! (文春文庫)

そして殺人者は野に放たれる (新潮文庫)

そして殺人者は野に放たれる (新潮文庫)

急がば疑え!

急がば疑え!

個人的な愛国心 (角川oneテーマ21)

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裁判官に気をつけろ! (文春文庫)

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怒りは正しく晴らすと疲れるけれど

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戦場取材では食えなかったけれど (幻冬舎新書)

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電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。

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神のみぞ知るセカイ 1 (少年サンデーコミックス)

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God only knows~集積回路の夢旅人~ テレビアニメ「神のみぞ知るセカイ」OPENINGテーマ

God only knows~集積回路の夢旅人~ テレビアニメ「神のみぞ知るセカイ」OPENINGテーマ

*1:WOLF'S DEMAー検証・日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』の評判 - KAFKAESQUE(日垣隆検証委員会)

*2:前記の『世界』1990年10月号の記事【閉ざされた回路ー神戸「校門圧死」事件の深層】を所収したものだが、「それは言えることだ」(雑誌掲載時)→「それはいえることだ」(単行本)と記述の一部に修正がある。

*3:上記の引用部分の初出は、例の『エコノミスト』の記事「変容を解く」と推定される。さらに単行本収録に際して「寝る時まで」(雑誌掲載時)→「寝る時にまで」(単行本)と記述の一部を修正していることも分かる。

*4:統合失調症の旧称「精神分裂病」の略称である。

*5:上記の引用部分の初出は、前記の日垣隆【<検証>大学の現在-8完-「学歴社会」異論】『世界』(岩波書店、1993年10月号)を所収したものである。単行本収録に際して「高校二年」(雑誌掲載時)→「高校三年」(単行本)と誤植を訂正しているのが分かる。

*6:上記の日垣隆井出孫六、工藤美代子、島田裕巳『日本人が変わったーふくらんだ泡が弾けて』(毎日新聞社、1992年8月5日印刷/1992年8月20日発行)のこと。

*7:統合失調症の旧称。2002年に日本精神神経学会の決議で、現在の名称に変わった。

*8:後述する日垣隆『子どもが大事!』(信濃毎日新聞社、1998年11月26日初版発行)のことである。

*9:日垣隆『子どもが大事!』(信濃毎日新聞社、1998年11月26日初版発行)P15〜17に例の弟の件について書かれているが、「仲の良い弟を殺された」という如何にも「他殺」を連想させるような記述は一切無い。このことは、後述の検証でも取り上げているので、そちらも参照して下さい。

*10:責任無能力者。14歳未満、或いは心神喪失で「責任能力無し」と認定された犯罪者のこと。

*11:前記の『現代』での連載記事に日垣センセイが加筆修正して所収した単行本の『少年リンチ殺人「ムカつくから、やっただけ」』(講談社、1999年6月30日第1刷発行)と推定される。

*12:前記の日垣隆井出孫六、工藤美代子、島田裕巳『日本人が変わったーふくらんだ泡が弾けて』(毎日新聞社、1992年8月5日印刷/1992年8月20日発行)のことだが、この本では日垣センセイは弟さんの死を「教師たちの重大な過失による学校事故で、命を奪われたのである。」(P84)としている。

*13:エコノミスト』(1997年7月15日号)連載分の「中三の夏、弟を殺した教師たち」から、「中三の夏、弟を殺した者たち」と単行本所収に際し、弟さんを殺したのが誰なのか微妙に変更されていることも分かる。

*14:上記の引用部分は、後に文庫化された日垣隆『敢闘言 さらば偽善者たち』(文春文庫、2002年4月10日第1刷)には存在しない。

*15:後に文庫化された日垣隆『敢闘言 さらば偽善者たち』(文春文庫、2002年4月10日第1刷)においても、著者紹介欄はカバーにあるが、単行本と内容が異なっており、「中三で弟を殺され、高三のとき兄が分裂病に、家族は崩壊する……」などの記述は一切無い。

*16:前記の日垣隆「暴発―長野・少年リンチ殺事件全記録【(5)誹謗中傷…遺族が背負う「さらなる苦悩」】」『現代』(講談社、1998年7月号)P324の記述と比較すると、雑誌掲載時「いまだ癒されていない自分を」→単行本「いまだ癒されない自分を」と記述の一部を修正しているのが分かる。

*17:カバー及び奥付に記されている。

*18:上記の引用部分は、前述した講談社発行の月刊誌『現代』(1998年2月〜5月、同年7月号)に全5回に亘って連載された「暴発―長野・少年リンチ殺事件全記録」には存在しない。尚、同書の文庫版である日垣隆『少年リンチ殺人―ムカついたから、やっただけ―《増補改訂版》』(新潮文庫、平成二十二年二月一日発行)P223〜225には存在する。文庫版の引用部分(『少年リンチ殺人―ムカついたから、やっただけ―《増補改訂版》』)も参照のこと。

*19:実際には、日垣隆『少年リンチ殺人「ムカつくから、やっただけ」』(講談社、1999年6月30日第1刷発行)の「あとがき」に、弟さんの件の記述は一切無い。記述があるのは、第5章(P222)と終章(P231〜232)である。

*20:言うまでもなく、著者(日垣隆)自身によるものである(P513)。

*21:前記の日垣隆『情報の技術―インターネットを超えて』(朝日新聞社、1997年10月20日第1刷発行)を改題・文庫化したものである。日垣センセイ自身による文庫版書き下ろしの解説に加えて、単行本「弟の事故死」「その弟の学校事故」→文庫版「弟の死」「その事件」と一部の記述を密かに修正しているのが分かる。

*22:エコノミスト』(1997年7月15日号)連載分の「中三の夏、弟を殺した教師たち」から、「中三の夏、弟を殺した者たち」と単行本所収に際し、弟さんを殺したのが誰なのか微妙に変更されており、文庫版もこれを踏襲している。

*23:前記の日垣隆『敢闘言 さらば偽善者たち』(太田出版、1999年5月22日印刷/1999年5月28日初版発行)の文庫版。

*24:単行本の初出の表記同様、文庫版でも『エコノミスト』(毎日新聞社、1995年1月10日号)となっているが、実際には掲載号の日付は「1995年1月3日/1月10日迎春合併号」である。

*25:日垣隆偽善系 正義の味方に御用心!』(文春文庫、2003年5月10日第1刷/2006年12月20日第2刷)は、日垣隆偽善系 やつらはヘンだ!』(文藝春秋、2000年9月10日第一刷)及び同『偽善系II 正義の味方に御用心!』(同、2001年3月10日第一刷)の合本である。上記の引用部分は、前記の日垣隆偽善系 やつらはヘンだ!』(文藝春秋、2000年9月10日第一刷)P85にも同一のものがある。

*26:日垣センセイの家族構成は、父(日垣秀雄)・母(日垣寿三子)・長男(兄)・長女(姉)・次男(日垣センセイ本人)・三男(日垣明)であり、亡くなった弟(日垣明)さんは三男の筈である。このことは、弟さんの死に関する当時の新聞記事、裁判記録(判決文)なども証明している。→ サンクチュアリ1973.7.23ー検証・日垣隆「弟の死」の真相 - KAFKAESQUE(日垣隆検証委員会) 世界の終りと1977.1.21ー検証・日垣隆「弟の死」の真相(補論) - KAFKAESQUE(日垣隆検証委員会) DARKER THAN DARKNESS1977.1.22ー検証・日垣隆「弟の死」の真相(補論A) - KAFKAESQUE(日垣隆検証委員会)

*27:上記の引用部分は文庫版の書き下ろしであり、単行本の日垣隆『裁判官に気をつけろ!』(角川書店、平成15年8月30日初版発行)には存在しない。

*28:前記の日垣隆『情報の技術―インターネットを超えて』(朝日新聞社、1997年10月20日第1刷発行)を改題・再文庫化したものである。弟さんの死に関する記述について、前回の改題・文庫版『情報系 これがニュースだ』(文春文庫、2001年3月10日第1刷)P517の「解説」は削除されているが、それ以外の記述は同一である。

*29:上記の引用部分の初出は、同書のP205〜206によると、例の『エコノミスト』の記事「変容を解く」であり、単行本収録に際して日垣センセイ自身が手を加えたらしい。

*30:日垣問題の記録 ~ 日垣隆 研究報告 ~: Amazon自作自演騒動 日垣問題の記録 ~ 日垣隆 研究報告 ~: アーサー⇔トキワ荘Amazonレビュー事件 日垣問題の記録 ~ 日垣隆 研究報告 ~: トキワ荘⇛懸垂二百回 Amazonタグ・コメント追加事件