KAFKAESQUE(日垣隆検証委員会)

主に作家の日垣隆、猪瀬直樹、岩瀬達也、岡田斗司夫、藤井誠二などを検証しているブログです。

賢明なワタリガラスー検証・井伏鱒二『山椒魚』剽窃疑惑

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公職選挙法違反で遂に略式起訴された猪瀬直樹*1伴一彦氏の件でも、謝罪のツイートをしています。

 お詫び/一昨年10月、私は、伴一彦氏脚本のテレビドラマ「ストレートニュース」に関し、私原作の劇画「ラストニュース」を盗作したとツイートしました。確たる根拠がないのに、「アホ脚本家」「盗作」とツイートし、伴一彦氏及び同ドラマの名誉を毀損したことにつき、心よりお詫び致します。猪瀬直樹

14:34 - 2014年4月1日*2

 伴氏によると、流石にエイプリルフールのネタではないとのこと*3。裁判で実質敗訴したからとはいえ、傲慢がカネ看板の猪瀬も殊勝なものです。

井伏鱒二の代表作『山椒魚』は剽窃

 猪瀬は井伏鱒二の代表作として知られる短編小説『山椒魚』について、剽窃疑惑をほのめかす主張を繰り返していました。

 井伏は『世紀』という同人誌(大正12年7月)にそんな心境で作品を発表した。「山椒魚」(発表時には「幽閉」、のちに改稿)である。

 「彼は日がな一日穴の中に身をふせ、夜は夜でおちおちねむられず、ひとかけらの食物も呑みこまず、間がな隙がなこう考える。『どうやらわしはまだ生きているらしい! ああ! だが明日という日はいったいどうなることやら?』」

 「あるとき彼が眼を醒ましてみると、彼の穴のまむこうにエビがいるのである。まるで魔法にでもかかったかなんぞのように、険のある双の眼をひんむいて、じっとしているのだ」

 「彼はのべつふるえ、たえずおののいていた。友もなければ、身寄りもなく、誰も訪ずれもしなければ、誰の訪ずれもうけなかった」

 「穴のなかは暗く、せまくて寝返りをうつ余地もないうえに、そこは太陽の陽光さえちらとものぞかず、暖みの気配さえない。しかも彼はこのしめっぽい暗闇のなかで盲目になり、やつれはて、誰の役にもたたず、身を伏せたまま、いったいいつになったら飢えが、この無益な生存から自分を解放してくれるであろうか? と待っているのである」

 「山椒魚」は井伏鱒二の代表作として、現在、教科書に載っている。岩屋に閉じ込められた山椒魚の寓話である。

 早く認められたかった、その焦りが井伏の出発点である。

 いまここに幾つか引用した文章、これが「山椒魚」という作品です、と紹介したら誰も疑わないのではないか。しかしこの文章は十九世紀後半に活躍したロシアの風刺文学の作家サルティコフ=シチェドリンの「賢明なスナムグリ」から引いた(註──スナムグリは鯉を細めにした体長は約20センチの川魚で川底に静止しときどき砂にもぐる)。

 井伏本人は、「山椒魚」はチェーホフの「賭け」からヒントを得た、と幾度も書いたり語ったりしているが、「賭け」とはまったく似ていない。それでもあえてそう弁明するのは一種のはぐらかしではないだろうか。

 ロシア人の日本文学研究家のグリゴーリイ・チハルチシビリ*4にとって、「賭け」でないことは明々白々なのである。彼は『新潮』九三年九月号(「陽気な人のための悲しい本──井伏鱒二の作品における『チェーホフ的なもの』」(沼野充義訳))で、日本人には思いもよらぬ反応を示した。

 「私は初めてこれを読んだときの印象を、いまでも覚えている。それは、最初から最後までロシア文学のモチーフによって組み立てられた、まったく『ロシア的』な短編ではないか、という印象だった。しかしその際、あまりにも明白な、おのずと浮かび上がってきた比較の対象は、チェーホフではなく、気がきいた辛辣なおとぎ話の作者としてのサルティコフ=シチェドリンだった。どんなロシア人でも『山椒魚』を読めば、『これはサルティコフの「賢いカマツカ」じゃないか!』と叫ぶことだろう」

 ロシア人には自明でも日本人にはわからない。そこで「賢いカマツカ」の翻訳があるかどうか探すと、『大人のための童話──シチェドリン選集第一巻』(西尾章二訳、未来社、80年刊)が出ていることがわかった(前出の引用文)。こちらでは「賢明なスナムグリ」というタイトルになっているが、カマツカもスナムグリも同じ魚で地方によって名前が異なるだけ、翻訳名は違うが同一の作品である。

猪瀬直樹ピカレスク 太宰治伝』(文春文庫、2007年3月10日第1刷発行)P513〜515
※初出・猪瀬直樹「『重松日記』出版を歓迎するー『黒い雨』と井伏鱒二の真相」『文学界』(文藝春秋、2001年8月号)P204〜205*5

猪瀬 じつは、「山椒魚は悲しんだ」という言い回しは、ロシアの風刺文学の作家シチェドリンが書いた『大人のための童話』シリーズの一つ「賢明なスナムグリ」を種本としているから翻訳調なんです。シチェドリンの場合は、帝政ロシアの圧政に抵抗すれば殺されるかシベリア送りになるから、フナ、ウグイ、ワシ、カラス、ウサギ、オオカミなどを主人公にして社会や人間を風刺した。スナムグリとは鯉に似た川魚で、川底に静止して、ときどき砂にもぐる習性を圧政に生きる知識人になぞらえて風刺している。一方、井伏の「山椒魚」のほうは、文学青年2万人が東京に吹き溜まっている、自分もまたその一人だという井伏自身の認識のもと、寸法が大きくなっているのを気づかずにいたせいで素通りできたはずの岩屋から出られなくなった山椒魚を自分の境遇に重ねた寓話です。つまり、それだけの話で、論理の展開がない。これって何なのか。エッセイなのか文学なのか。何でもないのではないかというのが僕の感想です。

猪瀬直樹猪瀬直樹著作集4 ピカレスク 太宰治伝』(小学館、2002年4月1日初版第1刷発行)P495
初出・猪瀬直樹谷沢永一との対話「作家の沈黙 文学の終焉」」『Voice』(2001年8月号)*6


  猪瀬に言わせると、『山椒魚』はロシアの作家チェーホフの『賭け』から着想を得たのではなく、同じロシアの作家シチェドリンの『賢明なスナムグリ』を下敷きにしている。ロシア人作家の日本文学研究者も『山椒魚』と『賢明なスナムグリ』が「似ている」と証言していた。生前の井伏が『賢明なスナムグリ』に一言も言及せず、あくまで『賭け』がヒントになったと主張していたのは、種本の存在が明らかになることを恐れていたからだ。とどのつまり、『山椒魚』は『賢明なスナムグリ』の焼き直し、盗作であると暗に非難するものでした。

 果たして、『山椒魚』は『賢明なスナムグリ』の剽窃に過ぎなかったのでしょうか。

●『山椒魚』『賢明なスナムグリ』『賭け』の三作品を読み比べると……

 井伏の『山椒魚』は、現在に至るまで数多くの教科書に載るほどの作品のため、新潮文庫等でお手軽に読むことができます。一方、チェーホフの『賭け』ですが、邦訳は『子どもたち・曠野』(訳者・松下裕、岩波文庫、2009年9月16日第1刷発行)P141〜154などに所収されています*7

 他方、シチェドリンの『賢明なスナムグリ』ですが、こちらは上記の猪瀬の指摘通り、邦訳は『大人のための童話ーシチェドリン選集第1巻』(訳者・西尾章二未来社、1980年7月25日第1版第1刷発行)P50〜61にのみ所収されています。

 今回、機会があったので、猪瀬の指摘、読みが妥当か否かを検証すべく、三作品を読み比べてみましたところ……僕(当ブログ管理人)の主観ですが、結論から先に言うと、三作品はそれぞれ似ていないと断言できます。

 まず『山椒魚』ですが、作品の粗筋についてはWikipedia等で参照していただくとして、『賢明なスナムグリ』と比較した場合、作品の雰囲気、一部の設定は似ているものの、全体の構成、モチーフ、ストーリーなどは全くの別物です。この程度で問題だと言うならば、恐らく、古今東西の小説の殆どがアウトになってしまいます。

 『賢明なスナムグリ』の内容をかいつまんで説明すると、老いたスナムグリから薫陶を受けた息子(主人公)のスナムグリが、父の教訓を肝に銘じて、保身第一の隠遁生活を送る話です。その結果、100年以上も長生きはするものの、次第に社会から孤立し、身寄りも無く、誰からも褒められることも無く、実に無味乾燥な生を終えていく……「お前の人生はそれで良かったのか、充実していたのか。満足だったのか?」と、その有様をユーモラスに書いた風刺小説です。作者のシチェドリンは、帝政ロシア時代、当局からの弾圧と迫害に怯えて萎縮して生きていた知識人階級の俗物根性、保身主義を賢しげなスナムグリに擬えることで、痛烈に皮肉っていたとも言われています。

 単行本巻末の解説でも、その点が触れられています。

賢明なスナムグリ

 この童話は1884年の『祖国雑記』第一号にはじめて発表された。この童話のモチーフは「賢明なスナムグリ」を性格描写しているシチェドリンの言葉や、雑誌に発表された童話のテキストに掲載されている言葉のなかで、シチェドリンによってかなり明白に述べられている。

「彼は教養ある、中庸をえた自由主義的なスナムグリであった。そして人生を生きるには擂粉木をなめては暮せないことをよく知っていた。誰にも気づかれないように生きる必要がある!」、彼は自分にそう言い、身をかためはじめた。

 この童話はナロードニキ運動の崩壊後、凡俗人がとらわれた驚愕を描いている。ツァーリの政府は専制と一対一で格闘しようと試みていた革命家の英雄的グループに容赦なく復讐していた。これらの「あまりにもおそい春の、あまりにも早い先駆者たち」は絞刑(原文ママ)にされ、シュリッセルブルグ要塞監獄の石の袋の中で釉薬をかけられ、シベリヤの人里はなれた片隅に追いやられた。1880年代のロシヤには狂暴な反動がとざし、憶病な凡俗人、「賢明なスナムグリ」は自分の穴に身をかくし、自分のあらゆる考えをただ一つのことにむけーどんなことがあろうと、自分の命だけは助かり、自分の身は安全であるようにと考えていた。ナロードニキ運動の高揚期に、言葉の上では革命への同情を表明していた狡猾な自由主義者たちは革命から遠ざかり、「よくよく用心しなきゃならん、さもなければとたんにお陀仏だ!」ーこういった傾向に走ってしまった。シチェドリン的スナムグリの恐ろしい賢明さは当時の圧倒的大多数のインテリゲンチャの哲学であった。

 自由主義者たちの凡俗根性と憶病さをおそろしく憎悪していたレーニンは、「賢明なスナムグリ」の形象をこうした政治的人種の鮮明な性格描写としてしばしば用いている。

『大人のための童話ーシチェドリン選集第1巻』(訳者・西尾章二未来社、1980年7月25日第1版第1刷発行)P415〜416


 そもそも井伏が『山椒魚』を発表した当時、『賢明なスナムグリ』の邦訳ないし英訳等が存在していたのかは確認ができません。井伏本人もロシア語に堪能ではありませんでしたから、原典で読んでいたのかも疑問符が残ります。『賢明なスナムグリ』の存在自体、知らなかった可能性も捨てきれません。

 例え読んで参考にしていたとしても、井伏は『賢明なスナムグリ』とは全く異なる別種の物語を『山椒魚』として創作していたと言えます。それの何処が問題なのか。猪瀬が上記のグリゴーリイ・チハルチシビリ氏の「証言」を引き合いに出して非難しているのは殆ど難癖に近いです。あくまでチハルチシビリ氏個人の「感想」として受け止めるべきと考えます。

 最後に『賭け』ですが、この作品は裕福な銀行家と法律家が死刑制度の是非を巡る議論に端を発し、ある「賭け」をする話です。他二作品の『山椒魚』『賢明なスナムグリ』のいずれにも全く似ていません。ネット上では、プロジェクト・グーテンベルクの英訳版「THE BET by Anton P. Chekhov」からの重訳が読めますので、疑問を持たれた方は、そちらでも確認していただけると幸いです。 

★参考資料

グリゴーリイ・チハルチシビリ「陽気な人のための悲しい本ー井伏鱒二の作品における「チェーホフ的なもの」」訳者・沼野充義『新潮』(1993年9月号)P292〜P299

山椒魚 (小説) - Wikipedia

アントン・チェーホフ - Wikipedia

ボリス・アクーニン - Wikipedia

ミハイル・サルトィコフ=シチェドリン - Wikipedia

http://www.tail-lagoon.com/story/tr/bet_chekhov.php

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/inosenaoki.html

http://www.inose.gr.jp/news/post1894/

【剽窃?】あの猪瀬直樹が指摘していた井伏鱒二の疑惑【文豪】 - NAVER まとめ

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山椒魚 (新潮文庫)

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山椒魚・遙拝隊長 他7編 (岩波文庫 緑 77-1)

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子どもたち・曠野 他十篇 (岩波文庫)

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ピカレスク 太宰治伝 (文春文庫)

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東京レイヴンズ1  SHAMAN*CLAN (富士見ファンタジア文庫)

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