KAFKAESQUE(日垣隆検証委員会)

主に作家の日垣隆、猪瀬直樹、岩瀬達也、岡田斗司夫、藤井誠二などを検証しているブログです。

長いヴァルプルギスの夜ー検証・日垣隆「ドイツ留学」の謎

・初めてこのエントリーを読まれる方は「日垣問題の記録」「日垣隆(Wikipedia)」「ガッキィスレまとめサイト@ウィキ」のご一読をおススメします。
※2012/11/26追記:エントリーを更新しました。日垣隆『情報の「目利き」になる!ーメディアリテラシーを高めるQ&A』(ちくま新書、2002年9月20日第一刷発行)P197の記述を追加。



●ドイツに留学していた?ベルリンの壁崩壊前に!?

語学留学先のフィリピンにて暴れていた日垣センセイ*1 *2。フィリピン留学は英語の学習のためなのでしょうが、実は「留学」に関して、以前にもこんなことを言っています*3 *4

コリアン町山ヤクザ映画評論家が渡米したとき、チュウボウ英語も喋ることができなかった、と書いている。私は普通に英語に不自由していませんし、ドイツにも留学しています。文庫も、これまで出ていなかったのは事実。この人、気がふれてるねえ。

2011年12月15日 - 00:10 TwitBirdから


論敵の映画評論家・町山智浩さんの出自をあげつらったヘイトスピーチ交じりの罵倒も酷いですが、その中で「私は普通に英語に不自由していませんし、ドイツにも留学しています。」と断言しているのです。

また、過去にはこんなことも*5

ありがとう! 私は半ば偶然、壁*6崩壊の前後に東西ベルリンにいました。RT @catwalkbreakdwn @hga02104サイエンスサイトークが大好きです。 ドイツにいても聞けるPodcast。便利!

2010年3月25日 - 7:59 TwitBirdから


さらに、facebookでも。

パリも暑い〜。ところでこのカバン、旅行にも通勤にも良いよね。コンパクトに折りたて、しかもデザインがシンプルで美しく、荷物が増えた時にはこの上なく便利。詳しくはメルマガで。これから、かつて住んだベルリンに向かいます。

facebook 2012年8月28日


「ドイツにも留学」「壁崩壊の前後に東西ベルリンにいました」「かつて住んだベルリン」……?

日垣センセイは本当にドイツへの留学歴があるのか。ベルリンの壁崩壊前後に東西ベルリンにいたのでしょうか。しかも、ベルリン居住歴……。著作等を調べてみると、ドイツ関係では以下のような記述がありました。

ドイツ統一の直前、東西ベルリンを何度も往復した。いずれの街のショーウィンドーにも商品は豊富だった。ただし東側では、地元の人々のための喫茶店が皆無に近く、書店も当然ながら国営で品揃えは著しく限定され、古本屋はついに発見することができなかった。けれども図書館と映画館と劇場には、夕刻を過ぎても大勢の人々が余暇を求めにきていた。出入口の近くでは、立ち話の群れができる。これだけ顔見知りが多い市民生活というものを素直に理解するのに、日本の住民にはやや時間が必要だった。

すでにフンボルト大学は休学状態が続き、ほぼ全員が社会主義統一党のメンバーであった大学教授の、多くは失業の烙印を押されていた。真向かいには威風堂々たる国立図書館がある。マルクスエンゲルスにかかわる文献蒐集で、ここにかなう規模の図書館はない。「国立」として最後の日、司書や職員を見送る人はなく、静かに裏口が閉められた。

ブランデンブルク門の周辺では、勲章や軍服やら「思い出」の品々が、色あざやかな壁の破片そのものと並んで観光客めあてに売られる即席屋台に、老人が本の束を持ちこんで拒絶されていた。青い表紙の『マルクスエンゲルス選集』だった。マルクスを手放すことは、老人にとって単なる「思い出」との訣別では断じてあるまい。だが若い即席屋台の経営者による拒絶は、たぶん商売上の判断でしかなかった。その数時間後、一九九〇年一〇月三日午前零時、ドイツ民主共和国は消滅した。

日垣隆『<検証>大学の冒険』(岩波書店、1994年1月27日第1刷発行)P134〜135


かつて私はドイツに留学していたことがある。その後、ベルリンの壁が崩壊し、「東ドイツ」がこの世から消えてしまった前後には、職業的な取材者として滞在した。

ホームステイ先が教師の家であったせいも、たぶんあるのだろう。『アントロポゾフィー』という言葉を何度も耳にした。アントロポス(人間)もソフィア(至上の叡智)も、ともにギリシャ語である。この二つを結んで成ったアントロポゾフィーは、独和辞典や哲学事典で「人智学」と訳されている。

日垣隆「新ニッポン論 五感ではなく十二感を!」『Verdad』(ベストブック、1998年7月号)P59


ドイツ統一の直前、東西ベルリンを何度も往復した。いずれの街のショーウィンドーにも商品は豊富だった。ただし東側では、地元の人々のための喫茶店が皆無に近く、書店も当然ながら国営で品揃えは著しく限定され、古本屋はついに発見することができなかった。けれども図書館と映画館と劇場には、夕刻を過ぎても大勢の人々が余暇を求めにきていた。出入口の近くでは、立ち話の群れができる。これだけ顔見知りが多い市民生活というものを素直に理解するのに、日本の住民にはやや時間が必要だった。

すでにフンボルト大学は休学状態が続き、ほぼ全員が社会主義統一党のメンバーであった大学教授の、多くは失業の烙印を押されていた。真向かいには威風堂々たる国立図書館がある。マルクスエンゲルスにかかわる文献蒐集で、ここにかなう規模の図書館はない。「国立」として最後の日、司書や職員を見送る人はなく、静かに裏口が閉められた。

ブランデンブルク門の周辺では、勲章や軍服やら「思い出」の品々が、色あざやかな壁の破片そのものと並んで観光客めあてに売られる即席屋台に、老人が本の束を持ちこんで拒絶されていた。青い表紙の『マルクスエンゲルス選集』だった。マルクスを手放すことは、老人にとって単なる「思い出」との訣別では断じてあるまい。だが若い即席屋台の経営者による拒絶は、たぶん商売上の判断でしかなかった。その数時間後、一九九〇年一〇月三日午前零時、ドイツ民主共和国は消滅した。
P195

しかし翌九〇年七月に起きた、あの事件は明らかに違っていた。日本では起こるべくして起きたと多くの人にはとらえられたはずの、神戸高塚高校「校門圧死」事件をベルリンで耳にした私は、少なくともドイツ人たちと、そのゆがみを共有して語り合うことはできなかった。ベルリンのドイツ人たちとは違って、日本に住む私には、校門を閉めた教師に殺意がないことは、断言できた。「善意」ですらあったろう。だが、なぜそう断言できるのか、異国の彼らに納得してもらうことはできなかった。自主性と思考力をはぐくむ場所であるのが学校の大前提だと確信する彼らにとって、校門に駆けこむ生徒の自主性と思考力はもとより生命までをも奪った教育指導の存在など、信じろというほうが愚かな試みだったのだ。
P270

日垣隆『「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか』*7北大路書房、1999年11月30日初版第1刷印刷/1999年12月10日初版第1刷発行)P195、P270


日垣 僕はドイツで生活したことがあって、平均的ドイツ人の粗食は驚嘆すべきものがあります。パンとソーセージしか食わないですよ(苦笑)、やや意地悪くいえば。ワインとビールとスープは美味いけど。住宅地ではブロックごとにパン屋さんと肉屋さんがあって、そこへ買い物に行って包装紙もあまり使わないから、非常にエコロジーという面もある。でも、イタリアとフランスを除いた欧米人は基本的に毎日同じメニューでも平気だから、アメリカ人好みのファスト・フード以外では、ゴミの量は圧倒的に少ない。とりわけ平均的ドイツ人の家庭ゴミの量は信じがたいほどです。たぶん僕らが東京で出しているゴミの五分の一くらいでしょう。そういう食生活をする覚悟が日本人にあるのかなあ(笑)。

日垣隆サイエンス・サイトーク いのちを守る安全学』(新潮OH!文庫、2001年3月10日発行)P136〜137


私が在京の編集者から声をかけられたのは90年の8月が最初で、松代大本営について何か書かないか、との提案が編集者のYさんから電話でなされました。そのとき、「最近はどんなことをやっていらっしゃるのか」と丁寧に問われ、私はつい昨日まで神戸高塚高校で調べたり考えたりしてきたことを告げました。「取材」という言葉は使っていません。「取材」という語彙は私のなかに馴染まないものだったからです(別世界のことで気恥ずかしい感じ)。発表する目処のない「調べたり考えたり」でしたが、校門圧死事件として当時世間の耳目を集めていたからというよりも、私はこの事件をドイツ滞在中に知り、周囲のドイツ人すべてが「あれは故殺だ」と断定するのに、日本人である私だけは「殺意は絶対になく過失致死だ」と最初からわかってしまい、この事件はジャパニーズ・スタンダードなのかもしれない、と思わざるをえず、その疑問を解くため帰国後、ただちに現場に赴いたのでした。
P183〜184

ベルリンの壁が崩壊した瞬間にも私は壁の前にいましたが、予測していたからそこにいたのではありません。部外者は誰も予測なんかしていなかったからこそ“衝撃のニュースが世界を走った”わけですからね。私がそこにいたのは、ほとんど偶然です(ワシントンにいたとき、別件でベルリン在住の知人に電話をしたら、「もしかすると大変なことが起きるかもしれない」という“ここだけの話”をされてベルリン経由で帰国することにしただけです。その限りで偶然とは言い切れませんが)。
P197

日垣隆『情報の「目利き」になる!ーメディアリテラシーを高めるQ&A』(ちくま新書、2002年9月20日第一刷発行)P183〜184 、P197


環境問題でもドイツは、なぜか憧憬の対象として描かれることが多い。私はドイツで生活したことがある。あの国の粗食に日本人が耐えられるとは断じて思えない。ドイツで普通に生活していれば、日本の家庭ゴミの六分の一以下で確かに済むだろう。ゴミ問題は日独で著しく実態が異なっているのだ。西ドイツの空港での朝食、あれは中流以上のドイツ人にとって、けっして“軽食”ではない。失礼ながら、あれが普通なのだ。

日垣隆偽善系 正義の味方に御用心!』(文春文庫、2003年5月10日第1刷/2006年12月20日第2刷)P197〜198*8


画期は一九八九年一一月だったと思う。私は、ベルリンの壁が崩壊するその瞬間を、この目で見た。壁崩壊直後から、かつての東ベルリンには、それまで公然とは断じてありえなかったポルノショップが増えた。

日垣隆『日本につける薬』(実業之日本社、2004年4月21日初版第一刷発行)P266


特別扱いの事件に思うこと

一九九〇年の夏、神戸高塚高校の校門圧死事件を私が取材した最大の理由は、そのニュースを海外で聞いたゆえだった(『「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか』北大路書房)。たまたまベルリン滞在中に起きたあの事件に対して、周囲のドイツ人たちを説得することが、ついに私にはできなかった。「あの教師は殺意を抱いていたのか」と問われて、そうではないことは断言できた。「では生徒の自殺だったのか」。とんでもない。「始業に間に合おうと努力した子がなぜ締め出されたのか」。それはたぶん日本人なら了解できてしまうことなのだがー。

日垣隆『エースを出せ!脱「言論の不自由」宣言』(文春文庫、2004年9月10日第1刷)P160


ベルリン

ドイツ民主共和国が消え去る日、私は東西ベルリン周辺を歩いていました。何週間も前から西側は大変なお祭り騒ぎです。一九九〇年一〇月三日、夜一二時のブランデンブルグ門をめざして、東西両サイドから大勢の市民が徒歩や地下鉄で集まってきています。

あとで日本のニュースを見てみると、「この記念すべき日に、東側の市民も西側の市民も、それぞれに夢と希望を胸に集まってきています」とキャスターが喋っていました。けれどもそれは、事実ではありません。東側からブランデンブルグ門を通り抜けた九九%は、西ベルリンからいったん地下鉄で東ベルリン(フリードリヒシュトラーセ駅)に出て、しかるのち迂回してきた西側の人々でした。私自身がその日たまたま、そのルートを辿ったので気づくことができたのです。

その翌日のポツダム広場では、すぐに旧東独の人だとわかるお年寄りが「マルクスエンゲルス選集」全一〇巻を売っていました。ずいぶん待たないと買えなかった、大切な家宝だそうです。「二〇マルクで」と、その老人は言います。約二〇〇〇円(当時)です。「一マルクでも無理だろう」と、西独で生まれ育った口さがない友人は私に教えてくれました。青い表紙カバーの選集を売る老人の横では、二〇代後半の青年が軍服を売っています。広場のあちこちでは、西側にはもう見かけないものばかりが並べられていました。けれども、観光客が買うのはせいぜい、小さなケースに入った「ベルリンの壁」の破片です。

日垣隆マルクスから学んだ七つのこと】『新潮45』(新潮社、2005年12月号)P132


かつて海外旅行が身近ではなかったころ、「ドイツでは子どもでもビールを飲むそうだ」「フランスでは水よりワインのほうが安いらしい」という話が、まことしやかにささやかれていた。後年ドイツに住んだりフランスを旅行したりするようになって、「そういう場合もあるが、そうでない場合のほうが圧倒的に多い」ことを知る。

日垣隆『通販な生活 一生を1ギガで終えないための買い物学』(講談社、2008年4月17日第1刷発行)P56


ベルリンの壁が崩壊する1年前、そして当日、さらに翌年(統一のとき)にも私はベルリンを訪れており、行くたびに大量に陰毛が写った絵葉書を買いだめしていた。
P233

ドイツにしばらく住んでいたころ、街に娼婦がいて公然と誘ってくる。映画館でもホテルでもだ。

私はそういうもの一般に興味がないので断りつつ、あることに驚いた。当局の許可証を彼女たちは持っていたのである。

私は売春が公認されている姿に驚く。だがドイツ人らに言わせれば、「日本こそ恣意的だ」そうな。
P234

日垣隆電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。』(講談社、2011年4月28日第1刷発行)P233〜234


私は、その数ヵ月前、テレビ局から1ヵ月分の滞在費とギャラをもらって、ワシントンD.C.国立公文書館にいた。

(略)

東欧各地の様子がなんだかへんだと、ベルリンに住むドイツ人から電話で雑談中に知らされた。

「今までにない空気」がオーストリアやベルリン周辺に流れている、というのである。放送局の許可を得て、ヨーロッパ経由で帰ることにした。そこからの滞在費はもちろん自前だ。

その滞在中、ドイツ人も日本人も予想していなかったことが目の前で起きた。ベルリンの壁が崩壊したのである。私はそこで「壁の破片」を幾つも拾ってきた。壁画のあとがあり、破片でも美しく、そこには「長い東西冷戦の痕跡」がくっきりと刻まれていた。

日垣隆「なんなんだこの空気はーメディア考現学 連載第九十四回 誰でもできる身近なリアル・オークション」『週刊現代』(講談社、2011年8月6日号)P161


ベルリンを東西に分け隔てていた壁には、壁画がほぼ全面に描かれていたため、その破片もかなり美しい。ちょっとした情報と勘で「きっと何か大きな事件がある」と感じてベルリン入りしていた私は、その歴史的瞬間に立ち会う幸運に恵まれ、その破片を幾つか拾ってきていたのである。

日垣隆「なんなんだこの空気はーメディア考現学 連載第九十五回 あなたもネトオクの主宰者に!」『週刊現代』(講談社、2011年8月13日号)P154



日垣センセイはドイツ再統一の年(1990年)に何度かドイツのベルリンを訪れていたのは事実のようですが……一体、何の目的だったのか。果たして前年(1989年)のベルリンの壁崩壊の前後に、当時の東西ベルリンにいたのか。或いは、壁崩壊前、本当にドイツへ「留学」し、教師の家にホームステイしていた経験があるのか。「留学」だったとしても、東西両ドイツの、何処の教育機関にどういう目的で、期間はどれくらいだったのか。留学費用は私費か奨学金などか。それとも、やはり「就労」「取材(仕事)」などのためだったのか。いずれにせよ、上記の著作の記述からは、判然としません。「ドイツに留学」云々は、日垣センセイの虚言だった可能性もあります。


余談ながら、日垣センセイは自らのドイツ語の実力について、こう書いています。

実は二年ほど前、ドイツから女性が僕の仕事部屋に遊びにきて、書棚に並ぶヘーゲルやらゲーテやらカントやらの書物を指差していったものだ。

「ヒガキさんは、私たちでも理解できないような難解な古典をドイツ語で読めるのに、どうして日常会話がろくにできないの?あら、いやだ。本当はドイツ語ペラペラなのに、隠してたのね。日本人は謙虚よねえ」

日垣隆『信州教育解体新書』(信濃毎日新聞社、平成三年十二月二日)P161


本当のことを言ってしまっていいのかどうか。英字紙を読めない日本の高校生でも、シェークスピア(1564〜1616年)の作品は比較的簡単に意味をとることができる。

授業にはまったく出なかった学生時代の私でも、アダム・スミス(1723〜90年)やリカード(1772〜1823年)を原典で斜め読みするのは、大学教授が紀要に書いた論文の意味を取るよりラクだったし、ドイツ語でもヘーゲル(1770〜1831年)の『精神現象学』や『論理学』は、難渋な邦訳より原文のほうがずっと明快だった。

日垣隆『急がば疑え!』(日本実業出版社、2006年2月10日初版発行)P176
※初出・日垣隆「敢闘言」『エコノミスト』(毎日新聞社、2004年9月13日号)


そこで良知力他編『ヘーゲル左派論叢』(御茶の水書房)の第三巻に収録されている本物の『ユダヤ人問題』を読んだところ、とても理解しやすいものでした。ドイツ語で読んだところ、批判したマルクスのほうが文章としてこなれていない、読みにくいという印象を受けました。ともかくこうして、『ユダヤ人問題によせて』を単独で読むより、参考文献を併せて読んだほうが、よりわかりやすく、理解も深まったということです。

日垣隆『つながる読書術』(講談社現代新書、2011年11月20日第一刷発行)P110


英語力のお粗末ぶりには定評がある日垣センセイ*9。ドイツ語の実力は、学生時代も含めてどうなのでしょうか……。


★参考資料

Amazonレビュー:嫉妬の一形態としての★1つレビュー

ベルリンの壁崩壊 - Wikipedia

ベルリンの壁 - Wikipedia

ドイツ再統一 - Wikipedia

「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか

「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか

偽善系―正義の味方に御用心! (文春文庫)

偽善系―正義の味方に御用心! (文春文庫)

急がば疑え!

急がば疑え!

電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。

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つながる読書術 (講談社現代新書)

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日本につける薬

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通販な生活 一生を1ギガで終えないための買い物学

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魔の山〈上〉 (岩波文庫)

魔の山〈上〉 (岩波文庫)

魔の山〈下〉 (岩波文庫)

魔の山〈下〉 (岩波文庫)

魔法少女まどか☆マギカ アルティメットまどか (1/8スケール PVC製塗装済み完成品)

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コネクト(アニメ盤)

コネクト(アニメ盤)

Magia(アニメ盤)

Magia(アニメ盤)

*1:フィリピン英語留学顛末

*2:【重要な問題なので、あと2〜3回ーーCG校サンディ様による、謝罪から急変した公式罵倒文への回答】

*3:ヒウィッヒ・ドットコム2011/12/15(木) 00:10

*4:togetter『日垣隆先生と英語』

*5:2010年3月25日 - 7:59TwitBirdから

*6:ベルリンの壁。東西冷戦下の1961年8月13日に東ドイツドイツ民主共和国)政府によって建設された、東ベルリンと西ベルリンを隔てる壁のこと。1989年11月10日に破壊された。

*7:『「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか』(北大路書房)は、上記の『<検証>大学の冒険』(岩波書店)及び『「ルポ」高校って何だ』(岩波書店)の合本。新たにP270〜272に「あとがき」などが追記されている。

*8:日垣隆偽善系 正義の味方に御用心!』(文春文庫、2003年5月10日第1刷/2006年12月20日第2刷)は、日垣隆偽善系 やつらはヘンだ!』(文藝春秋、2000年9月10日第一刷)及び同『偽善系II 正義の味方に御用心!』(同、2001年3月10日第一刷)の合本である。件の引用部分は、日垣隆偽善系 やつらはヘンだ!』(文藝春秋、2000年9月10日第一刷)P204にも同一のものがある。

*9:togetter『日垣隆先生と英語』 togetter『日垣隆大先生、リビアへ』