・初めてこのエントリーを読まれる方は「日垣問題の記録」、「日垣隆(Wikipedia)」、「ガッキィスレまとめサイト@ウィキ」のご一読をおススメします。
※2012/10/24追記:エントリーを微修正しました。
●犯人が判決の瞬間、ニヤっと笑った?
(前回のエントリーからの続き)日垣センセイは、『そして殺人者は野に放たれる』(新潮文庫)のP171〜177において、1980年8月19日夜に東京の新宿駅西口バスターミナルで停車中のバスが放火され、バスの乗客6名が死亡、14名が重軽傷を負った新宿西口バス放火事件も取り上げているのですが、その中で犯人B(仮名)が刑事裁判で判決の言い渡しを受けた瞬間の様子を、以下のように書いています。
この事件*1の前年、新宿バス放火殺人事件(原文ママ)が起きている。六名が殺され、一四名が重軽傷を負う凄惨な事件だった。この判決でも心神耗弱が認められてしまう。
実は、同時代に起こされたこの二つの事件で、それぞれの被告に心神耗弱が認められた判決の瞬間、二人はまったく同じ反応をした。
ニヤっと笑ったのである。
日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(新潮文庫、平成十八年十一月一日発行/平成十九年二月二十日四刷)P171
日垣センセイによると、新宿西口バス放火事件の犯人Bが刑事裁判の判決の瞬間、ニヤっと笑ったというのです。その根拠についても、次のように書いています。
※日垣センセイの原文では、実名が明記されていますが、事件関係者存命などの可能性に考慮して、引用文でも仮名にしています。尚、この改変は著作権法20条2項4号の「やむを得ないと認められる改変」にあたると考えています。
第10章 判決に満悦した通り魔たち
表情
前章の末尾で、新宿バス放火殺人事件と深川通り魔殺人事件の両被告が、心神耗弱を認められて刑を減軽された瞬間、ニヤっと笑った、とだけ書いて私は章を閉じた。
ここでは改めてその根拠を示すことから始めたいと思う。
刑法学者・前田雅英氏と朝日新聞論説委員・藤森研氏による対談本『刑法から日本をみる』(東京大学出版会、一九九七年刊)に、次のような藤森氏の発言があった。
《たとえばそういう精神的障害がある人による犯罪は無罪になってすぐ出てきてしまう、と特に週刊誌などは厳罰型の議論に訴える。それにくみする気はないんだけれども、やっぱりしっくりこないという感じは僕なんかにはありますし、またかなり広くあるんじゃないかなと思いますね。
たとえば僕の経験でいうと、通り魔殺人でたくさんの人を殺した被告の傍聴取材をやった時のことです。彼は被害妄想があって、妄想にささやかれてやったんだという主張をして死刑を免れて無期になったんですね。彼にそういう妄想は全くなかったかというと、あっただろうと思います。だけど、そのことがはたして刑事責任能力にどのくらい関係するのかという点です。専門家でない僕にはわからないけれども、無期の減刑判決[正しくは「無期に減軽された判決」とすべきところ。「減刑」は服役中の者に対する恩赦の一種であり、刑法三六条や三九条などに定められた「刑の減軽」とは異なる]を受けた直後に面会をした人がその後私に語ったところによると、被告はうまくやったと言わんばかりに笑っていたと言うんです。[中略]仮に無罪になってへへへっと笑っているとすると、ぶすぶす刺されて殺されちゃったほうはたまんないわけですね。そういう感情はかなりあるんじゃないかと思う》
藤森論説委員に私が確認したところによれば、ここで《通り魔殺人でたくさんの人を殺した被告》とは、新宿バス放火殺人事件のB(仮名)のことである。その様子を直に見聞したのは、Bの主任弁護士だ。
P172〜173(中略)
この事件をめぐって、司法記者時代の藤森氏が朝日新聞に書いた記事のなかには残念ながら、同記者にとって最も衝撃的だったはずの《被告はうまくやったと言わんばかりに笑っていた》事実は、一行も書かれていない。
P174
日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(新潮文庫、平成十八年十一月一日発行/平成十九年二月二十日四刷)P172〜174
日垣センセイに言わせると、Bが事件の刑事裁判で心神耗弱を認められて刑を減軽された「判決に満悦し」(P172)、「ニヤっと笑った」(P172)、その根拠は、かつて司法記者として同事件を取材していた朝日新聞論説委員の藤森研氏の証言であり、藤森氏はBの主任弁護士も同様の証言をしていると言っていたとのことです。
しかし、これもまた、下記の点でおかしい、と言わざる得ません。
まず当時の新聞報道ですが、朝日だけでなく、読売、毎日、日経の産経以外の全国紙(東京本社発行最終版)の新聞縮刷版を繙いて、この事件の1審の東京地裁判決(1984年4月24日)、控訴審の東京高裁判決(1986年8月26日)を報じる各新聞の当時の記事を確認したところ、いずれもBが判決の瞬間にニヤっと笑った、などという記述は一行も出て来ません。それをほのめかす、或いは示唆する記述さえも一切ありませんでした。念のため、ブロック紙の中日新聞(名古屋本社発行最終版)の縮刷版も調べましたが、やはり判決を報じる同紙の当時の記事にも、そのような記述は全く存在していませんでした。
次に事件を扱った他の書籍ですが、事件を傍聴取材していた読売新聞社会部による『ドキュメント裁判官』(中公新書、2002年12月10日印刷/2002年12月20日発行)のP50〜57、Bの弁護団に加わっていた弁護士の安田好弘氏の『死刑弁護人』(講談社プラスアルファ文庫、2008年4月20日第1刷発行)のP78〜112、事件の被害者の一人だった杉原美津子氏の『生きてみたい、もう一度 新宿バス放火事件』(新風舎文庫、2004年3月5日初版第1刷発行)、元新右翼の活動家で服役経験もあった見沢知廉氏の『囚人狂時代』(新潮文庫、平成十年四月一日発行)のP74〜78に、事件及びBのことが取り上げられています。これらもやはり例のBが判決の瞬間にニヤっと笑った、などという記述はおろか、それを示唆するものも一切書かれていませんでした。
そもそもBの人物像について、日垣センセイの記述から浮かび上がる悪辣で狡猾な知能犯のような凶悪犯罪者としての犯人像と、上記の事件を扱った他の書籍が浮き彫りにする犯人像とは、全く正反対なのです。
上記の事件を扱った他の書籍によると、元来Bは無口で大人しく、人畜無害を絵に描いたような性格でした。とはいえ、Bは軽度の知的障害があったらしく、読み書きも満足にできなかったそうです。家庭環境も劣悪で実父が飲んだくれ、実母は幼少期に台風の災害で死亡、Bは極貧家庭のためもあって満足な教育が受けられず、義務教育は一応修了したものの、小学校4年生以降は学校に殆ど通えませんでした。またBは統合失調症での入退院歴もあり、Bの妻も精神障害と認定されて入院し、離婚。職を求め、Bは離婚した元妻との間にできた子供を福祉施設に預け、各地を転々として働いていたとのことです。苦しい生活の中でも、子供への仕送りは続けており、実際、事件後に警察が押収したBの預金通帳には、子供への仕送りのために数十万円の預金があったそうです。
事件時のBは、ひどい酩酊状態であり、事件後は自分のしでかしたことの重大さに遅ればせながら愕然とし、面会した安田氏にも「申し訳ないことをした」「大変なことをしてしまった」と事件に関する謝罪の言葉を繰り返していました。公判が始まってからもBは「死んでお詫びをさせてほしい」と弁護団に謝罪の言葉を伝えていました。そこには上記の日垣センセイの記述から伺える凶悪犯罪者としてのイメージとは180度異なる、罪意識に苦しむ哀れな犯人の姿でした。
安田氏及び弁護団だけでなく、Bの取り調べにあたった検察官、東京地裁の裁判長、Bの精神鑑定を担当した鑑定医も、ほぼ同様のイメージを受けており、どうしてBがあのような事件を起こしたのか、そのギャップに軽い困惑を覚えていました。
控訴審の公判でも、Bは傍聴席の被害者たちに土下座して謝罪し、判決で検察の求刑する死刑ではなく、無期懲役を言い渡された時も、自分が死刑にならないことが申し訳なく、傍聴席に向かって繰り返し謝罪していました。
高裁判決の確定後、事件の被害者の一人である杉原氏と収監先の千葉刑務所で面会した際も、Bは杉原氏に対し「申し訳ありませんでした。痛かったでしょう」と、ひとしきり謝罪を続けていたそうです。
さらに千葉刑務所で服役中に、同刑務所内でBと会った見沢氏も、Bの様子について軽度の知的障害や統合失調症(?)らしい奇行癖が時々あったものの、基本的には無口で大人しい印象を受けたそうです。
これらの証言からすると、上記の日垣センセイの本書*2における記述は、どう考えても不自然かつ不可解なものなのです。
大体、上記の日垣センセイの本書における記述の根拠とは、朝日の司法記者だった藤森氏の、それも藤森氏がBの主任弁護士から聞いたという「又聞き」の情報です。つまり、直接裏付けとなる取材など、実はしていないことが伺えます。「Bが判決の瞬間にニヤっと笑った」というのは藤森氏の勘違いか聞き違い、または日垣センセイのそれらか、日垣センセイ自身による捏造及び嘘八百の可能性もあると思います。無論、Bの主任弁護士が藤森氏に虚偽の証言をしていた可能性もありますが……。
因みに、Bは1997年10月7日に千葉刑務所内で首を吊って自殺。Bの自殺について、日垣センセイは本書で下記のように書いています。
なお、Bは九七年一〇月七日、収容先の千葉刑務所内で首吊り自殺し、この世を去った。
判決には満悦できても、獄中生活には耐えられなかった。
日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』(新潮文庫、平成十八年十一月一日発行/平成十九年二月二十日四刷)P177
実際には、Bは千葉刑務所内でも周囲の受刑者たちから可愛がられており、刑務所の関係者もBの自殺には大きなショックを受けたそうです。Bには遺書もなく、自殺の前兆も全くなかったらしいです。
いずれにせよ、学術雑誌の講演記事の一部を盗用して取材をデッチ上げていた疑惑のある件*3といい、とても本書は緻密な取材と裏付けがなされているとは言い難いです……。
★参考資料
Amazonレビュー:感情的対立を煽るだけの悪しきジャーナリズム
読売新聞社会部『ドキュメント裁判官』(中公新書、2002年12月10日印刷/2002年12月20日発行)
安田好弘『死刑弁護人』(講談社プラスアルファ文庫、2008年4月20日第1刷発行)
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